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出家、日本をゆく 2016年10月(仏教で子育てを考える)

10月15日
今日は、沼津にあるヨガ・スタジオで、坐禅瞑想と勉強会。三島市街を車で通ったのだが、以前伊豆のほうにバイクで出かけて、帰りに車にはねられたことを思い出した。私は、生涯で二度車に跳ねられている。いずれも横から当てられてふっとんで、車道に大の字に転がったが、しばしの静寂(気絶?)ののちにむくりと立ち上がって、「大丈夫ですから」とそのまま帰路についた(いずれの運転手も青ざめていたが、そりゃそうだ(笑))。

今思えば、あれほどの混沌を脳裏に抱えていて、よく交通事故死しなかったものだと思う(笑)。

ひとは、自分のことが見えているようで、かなり見えていないものだ。たいていの人は、「こうして生きていられているのだから、きっと見えている(自分のことがわかっている)」と思っていたりする。

ただ、「生きていられている」ことと「見えている」ことは、まったく次元が違う。生きるだけなら、見える必要はないかもしれない。ただ、見えていない状態なら、心に潜む苦悩や課題は、そのまま妄想や欲や不満(えてして不満の矛先は人間だったりする)をエサにして生き長らえる。

見えたときには、苦悩はなくなる。だから〝さとり〟(正しい理解)をめざすことで、苦悩は減っていく。そういうものかもしれない。


○今回招いていただいたヨガ・スタジオは、ポンテ・マル・スパッツィオという。オーナーさんの店でいただいた昼食――手づくりの酵素玄米と、けんちん汁の(具材の繊細な仕込みぶりと)絶妙な味つけ――に、感銘を受けた。

※沼津近くの人は、ランチタイムにぜひどうぞ。明るい店内で気持ちが晴れます:まるいちカフェ)。

そして皆への差し入れとして、山形米沢の喫茶室 C'z Cake&tearoom の特製シフォンケーキを持参。とてもやわらかで、雲を食べているような逸品。この夏の全国行脚でお世話になったお店からの、ありがたい差し入れだった。


○このスタジオは、ヨガ・インストラクターの女性4人が運営しているのだが、どの女性も、とても美しい動機を持って頑張っておられた。ヨガにしても禅にしても、結局、指南する側の動機というか、心がけているものが、モノをいう。

結局、学びの場所で一番伝わるのは「心」。だから、伝える側の心に、純粋なものが必要だ。

その点で、このスタジオなら、きっと美しい心持ちに触れられる。そうしてひとときを共にして、心が少し落ちついてクリーンになれば、とてもよい時間だったということになる。近所の人におすすめします。


○さて、最近、感じたことをいくつか。特に教育・子育てについて:

伝える(指導する)側に必要なのは、大きく二つ――「心」と「技術」である。

「技術」とは、スキルやノウハウ、「どうやればいいか」という具体的な部分。どんな場所であっても「学び」を標榜するからには、伝える側にたしかな「技術」がある必要がある。

ただ、もう一つ欠かせないものがある。それが「心」だ――思いやりがあるか。情熱があるか。何かを伝えようという明白な〝意志〟があるか。

いずれが大事かといえば、本当は、意志・心である。

技術というのは、場数を重ねていけば身に着くものだし、学ぶ側が自然に習得していく部分もある。

ただ、「心」というのは、指導する側から、受け取る側に流れる(その逆はあまりないと思うほうがよい)。

受け取る側以上の「心」――熱や愛情のようなもの――が、伝える側にある必要がある。

伝える・教える側の悩みも聞くことがあるが、なによりも――表面的な部分、たとえば技術的なことや世間向けの体裁などは全部取り払って――「心」だけを見るべきだ、と思う。

人間というもの、長く生きていれば、必ず伝えるべき何かを持っているものである。

「自分が伝えるべき・伝えられるものは、いったい何か」

「何が伝われば、自分自身が一番納得できるのか」

そういう部分だけを、純粋に考えてみたい。


○もうひとつ、世間のさまざまな情報に触れて、「うちの子は遅れているのでは(問題・障害があるのでは)」と惑わされてしまう親の話も、耳にする。

今は、先生の側も情報過多の時代である。子どもたち・生徒にレッテルを張り――成績とか成長度合いとか――、その子の良し悪しを判断したがる。その「判断」こそが、子の心を正しく見る眼をどんどん曇らせる。

親に「不安」を感じさせている時点で、その指導は失敗している。

なぜなら、「正しい理解」に立った言葉は、必ず「今後どうすればいいか」「なぜそうする必要があるか」を明瞭に、答えられるものだからだ。

もし、子どもの良し悪しを「判断」する言葉に出会ったら、それは「妄想」なのか「正しい理解」なのか、と考えてみてほしい。

「妄想」とは、その人個人の意見、感想、ただの評価・判断――現実には存在しないものである。ただの思い込み。

ひょっとすると、親が世間で聞く99%の言葉は、「妄想」でしかないのかもしれないのだ。というのは、「子の良し悪しを判断しているその人たちは、妄想を抜ける練習を、一度もしたことがない」人たちだからである。

「先生」たちは、一生懸命知識を詰め込み、判断の仕方を溜めこんで、「考える」ことを懸命にやり続けてきた人たちだ。その頭の中にあるのは、「思考(判断・評価・推測)」であって、「正しい理解」ではない。

「正しい理解」に立ってみれば、ほとんどの子供に、問題はない。その子それぞれが、他の子どもとは違う心をもっている。どだい、心と心を比較すること自体に、ムリがあるのだ。

唯一「問題」が生じるのは、その子自身が「苦」を感じているときである。そうではなく「元気で、笑っている」間は、まず問題なし、安心していい(そう考えられるように練習しよう。ここでも妄想を抜ける練習です)。


○子どもというのは、千差万別。というか、心そのものが、心の数だけ、違う。

「本当の愛情」とは、そういう心を、けして妄想せず、良し悪しを判断せず、ただありのままに「理解する」こと。ニュートラルであること。穏やかで「ただ理解する」という心に立てること。それで十二分。

大丈夫。妄想に負けるな――と伝えたい。