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サイの角はただの○○?【Q&A】『反応しない練習』の「私は私を肯定する」の意味


こんにちは、草薙龍瞬です。

最近、電車の中で見かけた広告にこんなものが――

「残念なおしらせ サイの角は、ただのイボ  『残念などうぶつ図鑑』」

そうだったのか! ということは、「犀の角のようにただ独り歩め」という原始仏典(スッタニパータ)の一節は、「ただのイボみたいにただ独り歩め」ということか!!!(なんだそれ)

「欲望の先にはマイナスがあることを見て、ただのイボのようにただ独り歩め」

「実践すべき道(方法)を得た者は、「もはや他者の言葉に振り回される必要はない」と知って、ただのイボのようにただ独り歩め」

うーむ。説得力激減ではないか。だがそれでも、半ばうならせるだけの説得力が残っているらしいところが、原始仏典のすごいところか。しかし、

「物音に動じない獅子のように、網につかまらない風のように、泥水に汚れない蓮の花のように、ただのイボのように、ただ独り歩め」

こうなると比喩つづきで、ワケがわからない。原始仏典をざんねんな言葉に変えてしまうとは、おそるべし、『ざんねんなどうぶつ図鑑』。


【Q&A】意外?「私は私を肯定する」は、謙虚さの別名

――というのは、余談で(それはそうだ)、今回はこんなご質問をいただきました。


Q せっかく『反応しない練習』と出会えた後も、不安になったり妄想の檻に入ったりしています。謙虚さが足りていないから、妄想好きな自分に執着して自分を変えられないのだと思いました。

 そういう毎日の葛藤の中で、少し混乱してしまったことがあります。反応しない練習の中で「私は私を肯定する」と唱えることが書いてありました。あれは、謙虚でない人が落ち込んだ時も唱えていいことなんでしょうか。それとも「肯定する」ということは「謙虚でない」ということになるのでしょうか」


A ご質問ありがとうございます。これはすべての人にとって、大事なテーマになりえます。

(謙虚さが足りないといえる人というのは、あまり多くありません。敬意を表します。)


「肯定する」というのは、「否定的に判断しない」ということ。つい自分を責めたり、落ち込んだりしてしまう原因である「判断グセ」を止めるための言葉です。

「自分はダメだ」「まだまだだ」「未熟」「失格」「資格なし」――と、ひとは、つい自分のことを判断してしまいます。

そうやって自分にダメ出しすることで、自らの自尊心を傷つけてしまう。落ち込んでしまう。少なくない人が、この自虐グセ・ダメ出しグセを持ってしまっているものですね。

ただ、このクセは、客観的に見ると、三つのマイナスがあります。



ひとつ――「判断」した時点で、雑念・妄想をひとつ増やしてしまっている。

ふたつ――「否定」した時点で、自分の承認欲が満たされないストレス・怒りを作っている。

みっつ――「ダメ出し」そのものは、誰にとってもメリットがない。


みっつめの「メリット」という点は、多少解説が必要かもしれません。

たとえば、誰かが「私はダメなんです」「失格です」と自分にダメ出しをするとしますね。

これは、本人は反省しているように思っているかもしれませんが、客観的に見ると「自分を守っているだけ」ということになります。

相手がいる関係において、「私はダメですね」と表明すると、相手は、「いやそんなことありませんよ」とかばうか、「はい、ダメです」という二者択一の態度表明を迫られることになります。

端的に「あなたをダメにしているのは、こちら側」ということ立場に立たされます。相手が悪者になってしまうのです。

仕事上の関係なら、「そんなことを言っているんじゃないのに。ちゃんとやってほしいだけなのに」と相手は思うでしょうし、

親子関係なら、「そんなことを言っているんじゃない。お母さん(お父さん)は、そうやってすぐ自分をかばって、私を悪者にする」と、(言語化できるかどうかは別として)内心思わされてしまいます(これが、子供の心を傷つけます)。


なので、人間関係において「私はダメなんだ」という自己否定は、基本的に、何ももたらしません。自分をかばって、相手を困らせてしまうだけ――特に、子をもつ親は、要注意です。


●さて、本題に戻りますが、「肯定する」というのは、「判断しない」ということ。ただ現実の自分を「理解する」ということです。

判断するのと、理解するのは、違います。理解するというのは、積極的に価値を見出すのでも、価値を否定することでもありません。


今現時点での自分を、ありのままに理解している。承知しているということ。


仮に「未熟」「失敗」といえるような自分であっても、まずは「そんな自分であることを理解します」ということなのです。


①理解する。理解する。理解する。そして、

②判断しない。判断を消す。妄想を消す。


実際には、①の「理解する」というところには、なかなか立ちにくいもの。

大抵の場合は、自分を否定するクセがついてしまっているので、その否定グセにストップをかけるために「わたしはわたしを肯定する」と唱えるのです。それでOKです。


まず避けるべきなのは、「自分はダメなんだ」と自己否定する負のスパイラルに歯止めをかけることです。

この自己否定のスパイラルは、何も生み出さない。自分を落ち込ませるだけだし、相手がいる関係なら、相手を困らせてしまいます。

とにかく、否定グセが出そうになったら、「わたしはわたしを肯定する」と何度も唱えて、その思考に歯止めをかけるのです。『反応しない練習』でお伝えしたのは、まさにこのこと。これは、心が沈んで行かないための防波堤になります。


●「肯定する」とは「判断しない」ということ。その先に何があるかといえば、「つつしみ(謙虚さ)」です。

「判断」というのは、それが「自分は正しい」という思いであれ、「自分はダメだ」という否定であれ、「慢」に当たります。

「自分は正しい」というのは、承認欲が作り出す判断。自分がエライとか、いいかっこしようとか。プライドも、見栄も、比べっこも、承認欲をエネルギー源とする判断です。

他方、「自分はダメだ」というのも、承認欲をエネルギー源とする判断であることに違いありません。この自己否定が「困る」のは、一度自分を否定して、みずからストレスを作り出しておいて、いざ「やり返せる」ときにやり返そうとしてしまうことです。

どうだ、見たか。ほら、私のほうが正しかった。あのときのことを謝ってください――といった仕返しとなって、後で出てきます。

これも、親子関係にはけっこう多いこと。子供が言うことを聞かない(子にはそれなりの言い分があるのに、親は聞いていない)。で、子供がいざ不利に立たされた時に(受験がヤバいとか)、ホラだから言ったでしょ、親に謝りなさい、といった形で「復讐する」ことが、しばしばあります。


つまりは、自分を否定する判断は、状況変われば、すぐに相手への「慢」に変わってしまうということ。

自分を過剰に肯定するのも、否定するのも、「承認欲が作り出す判断」という点では同じです。それは「慢」。

「慢」は、危なっかしいのです。自分を否定するか、関わる相手を否定するか。

自分も相手も肯定できるかも? それはありません(笑)。それができるのは、「慢」という判断ではなく、「理解」であり「慈悲」であり「つつしみ」です。


●なぜ仏教が「判断するのはおやめなさい」と説くかと言えば、「よく理解できるようにするため」です。

慢はいらない。自己否定もいらない。あれやこれやと、自分の思いや考えの正しさを裏付けようと、次々に妄想を重ねることもいらない。

なぜいらないかといえば、それは「理解」を遠ざけるからです。


あれこれ考えることより大事なのは、

自分の慢や、余計な判断グセや、自己満足に走ってしまう心のクセを「理解する」こと。

相手の思いや、立場や、こちらに求めていることを「理解する」こと。


人と人との関係性は、「理解する」ことが基本だし、それに尽きます。

ところが、人間は、さまざまな判断と、慢と、妄想グセがあるものだから、自分のことも、相手のことも、正しく、クリアに理解することができません。

理解できないみずからの心の状態。あるいは、理解することを拒む・おそれる心のクセ。

そこに囚われてしまうのです。


理解を拒むことで、何を守ろうとしているか――それは、「今の自分」です。ありのままの自分を理解すること、相手が求めていることを理解することは、自分が否定されてしまうようで恐いのです。

しかし、「自分が否定される」という思いこそは、「今の自分はイケている・正しい」と思いたい慢や妄想がつくりだしているもの。「恐い」というのも、「自分はもっといい人間」という妄想を壊されてしまうのが、恐いだけかもしれないのです。


ひとは、多かれ少なかれ自分に妄想を抱くことで、承認欲を満たしているもの。

ただ、それは別名「妄想の檻」でもあります。「仮想の自分」というイメージに必死でしがみついている状態かもしれません。

ただその状態だと、「壊される」ことに恐怖を感じます。となると、相手が伝えようとしていることにも過剰反応してしまって、ヘコんだり、自己弁護に走ったり、自分を悪者に仕立てたり(それは結局相手を悪者にしてしまうことなのですが)、というループにはまりこんでしまいます。

そして、関係がうまく行かなくなり、自分の中では自己嫌悪が募り、という悪循環におちいります。

そうなると、変われません。関係も変わらない。哀しいかな、ひとは、この「妄想の檻を壊されることを極度に恐れる」ループの中に閉じ込められてしまうことが、ままあるのです。


●この残念な輪廻から抜け出すための意外な方法――それが「謙虚になる」ことなのです。

謙虚になるというのは、自分自身を妄想しないということ。自分を正しいとかダメだとか、上とか下とか、資格があるとかないとか、いっさい判断しない。

人間なんて、あやまちは犯すし、未熟なものだし、性格も、行動範囲も、限定されたものです。小さな生き物です。

特に、ひととひととの関係というのは、互いに見ているものも、考え方も違うのだから、関わればかならずといっていいほど「穴」が生じます。

その穴――失敗・理解の食い違い――に、わざわざ承認欲で反応して、判断グセで判断して、あれこれと妄想し始めるから、ややこしくなってしまいます。


「穴」を解消しようと思えば、自身の妄想グセ・判断グセに、まず気づくこと。


相手の言葉・思いを正しく理解して、その相手の思いを「前提にして」、関係をもう一度作り直してみせることです。それで解決。

大人同士の関係であれ、親子関係であれ、これは真理です。


関係をややこしくしているのは、なぜなのか。たいていは、自分の妄想グセ・判断グセがあります。

しかし重ねて理解したいことは、すべての人間は、そんな妄想や判断を押し通していいほど、偉くないということです(笑)。

今の自分にこだわって、変わることを恐れて、理解することを怖がって、「私はやっぱりダメ」とか、逆に「私はこれでいい(開き直り)とか、

そういう承認欲にもとづく判断の檻、「私、私、私」という自意識の檻――に閉じこもるほどのことは、何もないのです。

そういう不毛な思い込み、自分への執着を、いさぎよく捨てられること。それが謙虚さです。



●だから、仏教の世界では「つつしみを念じる」ということを、練習=修行としてよくやります。

「行い、言葉、思いの三つで犯したあやまちがあります。私は、そのあやまちを懺悔いたします」という言葉です。

「懺悔」は、「ダメ出し」「反省」というのとは違います。「謙虚に、妄想もなく、判断もなく、しっかりと理解します」という意味です。

それは「理解して、前に進みます。私は変わること・成長することを恐れません」ということでもあります。

「理解する」という立場に立つ――そのとき、すべてはリセットです。恐れては、いけない。


その理解を相手に伝える勇気、誠実さを持てること――それも謙虚さの一つです。親ならば、子への本当の愛情ということになります。

相手が、慈悲や、友情や、プロ意識を持った人なら、あなたが伝える「理解」を受け止めることでしょう。子供なら、「わかってくれたんだ」と素直に喜ぶはず。


本来、人間関係は、なにひとつ問題はないはずなのです。

邪魔しているものは何なのか。難しくしているものは、何なのか。それは自分の中にあります。


自分はいったい何を恐れ、何を拒んでいるのか。よくよく考えてみたいものです。


「謙虚になる」ことと、「わたしはわたしを肯定する」は、最終的には同じです。

「理解」という心に道を開くための、出発点となる心がけです。


(興道の里会員へのメール通信より)