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世にも不思議な、かなり恐い物語~ブッダガヤ追想



今回、お話するのは、私が体験した、世にも不思議な、そしてかなり恐い体験です。

ある日、私は、ブッダガヤといわれる、仏教徒にとって聖地とされる場所を訪ねました。

なにしろ、お釈迦さまが悟りを開いたとされる神聖な場所です。きっとありがたい、貴重な経験ができるものとたいへん期待していました。

ホテルのフロントで、観光ガイドを呼んであげますと言われました。

やってきたガイドは、若い男性でした。日本語と英語がペラペラです。ドコ二行キタイデスカ?と聞いてくるので、この地の定番である、ブッダガヤの大塔ほかの場所を伝えました。

バイクでいろんな場所を回っているうちに、ある場所に連れて行かれました。「ココニ学校ガアリマス、見テミマセンカ」といいます。インドの学校を見学できるとは素晴らしい、と喜んで中をのぞきました。

中には子どもたちがいました。先生がうながすと、みな大声でハローと挨拶してくれました。子供たちは、近隣の村のとても貧しい家庭から来ているといいます。親は貧しい農民か、物乞いくらいしか仕事がない人たち。「自分タチハ、子供タチノタメニ完全無償デ授業ヲシテイマス」と、先生は言いました。

授業料も、教科書代も、食べ物も、全部無料だそうです。「ソーシャルワーク」「チャリティ」でやっていると言います。

外国人である私は、インドに貧しい人たちがたくさんいることは聞いていましたので、なんてかわいそうな、と思いました。「経営ガトテモ苦シイデス」とも言います。

学校の壁には、日頃の学校の活動の様子や、スポンサーを務めているという外国人たちの写真、そして先生や子供たちが笑顔で勉強している写真が、たくさん貼ってあります。この場所は、貧しい子供たちのために貴重な活動をしているのだといたく感銘を受けました。

自分も協力してあげたいと思って、さっそく寄付しました。海外から送金してくれる篤志家もいるそうです。


――数日が経ちました。私は、他の仏教遺跡地を旅行して、駅から次の場所に移動するために、再びブッダガヤに立ち寄りました。


朝、駅に向かう途中、「あの学校の子供たちにひとめ会ってから帰ろう。今日は平日だし、学校は9時半から始まると言っていた。ちょうど学校が始まる頃だ」と思って、学校に向かいました。

そして、学校に行くと――、

誰もいませんでした。教室は、もぬけの殻でした。子供も、先生も、ひとりもいませんでした。

いや、ここは本当に教室なのでしょうか。廃屋のように見えなくもありません。数日前に私が訪ねたのは、別の場所だったのでしょうか。いえ、この場所に間違いありません。

私は、なんだかキツネにつままれたような気分になりました。

これはいったいどうしたことだろう、私は夢を見ていたのだろうか、なんとか答えを見つけたい思いで、周りをフラフラと歩いてみました。

すると、レンガの小屋が並ぶ部落を見かけました。そこに時間を持て余すかのように立ってこちらを見ている、4,5歳から10歳くらいまでの子供が何人かいました。私のほうを黙って見つめています。

その中に……数日前に、あの教室で見かけた子供がいることに気づきました。

学校はどうしたの、と聞きたかったのですが、言葉が通じません。ただ、その瞳はどこか濁っていて、無気力そうに見えました。数日前にあの「学校」でも感じたことですが、妙に生気が乏しいのです。

すると、そのときです――ピーッと笛が鳴る音がしました。その音を聞きつけるや否や、子供たちが走って行きました。学校があった場所のほうです。
 
私は、子供たちの後を追いました。ただ、何か妙な違和感があって、学校が見える近くまで行って、道の端の物陰で学校のほうを眺めていました。

すると、大人たちの大声が聞こえてきます。どうやら、数日前に学校のことを説明してくれた「校長」や「先生たち」のようでした。

私が見つめる先を、遅れて走って来た子供たちが「学校」へと入っていきます。

しばらくして、「学校」の雰囲気が少し落ち着きました。さて、中で何をしているのだろう、とおそるおそる近づいて行きました。

ちょうどそのときに、西洋人の男がひとり、バイクに乗せられてやってくるのが見えました。そのバイクを運転しているのは、数日前に私をガイドした男でした。

まるで、数日前の私自身を見ているかのようでした。

西洋人が学校の中に案内されていくのを遠くに見ながら、少しずつ学校に近づいて行きました。

そこで私が見たものは――

花輪を首にかけた西洋人の男が、授業を見守っている様子でした。ちょうど数日前に、私がしてもらったように。

さっきまでいなかった「先生」が、子供たちに威勢よく声をかけると、子供たちが元気に答えます。いつの間にか「学校」が始まっていました。

そして、さっきまでなかった「WE WELCOME YOU!」の文字が、花の模様と一緒に、チョークで地面に描かれているのでした――。


この人たちの目を見てください。なにか変だと思いませんか?

●今回お伝えした「世にも不思議な、そして恐い物語」は、今回私が、自分で体験したことと、現地で聞いた話とを組み合わせて、物語に仕上げたものです。

なので、このお話どおりの体験をすべて私がしたというわけではありません。しかし物語に盛り込んだすべての描写は、実際に現地で起きた出来事を元にしています。

そして、今回私自身が出会った青年は、スジャータ村のフェイク・スクール――まさか、フェイクという言葉をこの地で使うことになるとは^^;)――の元スタッフで、そのうち分裂して、みずから「校長」に収まり、政府公認の財団であることを示す立派な看板まで道に立ててあるものの、

実は、公認など受けておらず、つまりは完全にデタラメだったということが、わかってしまいました……(なんて、哀しい結末か)。

フェイクだと感づいたのは、私自身が訪れて見た光景の、妙な違和感が残った断片を後でつなぎ合わせ、さらに彼らが語る言葉を注意深く観察して、また現地の他の人たちの話などを総合したあとのこと。
真相が見えてきた時は、不思議なデジャヴを感じました。というのは、12年前にブッダガヤに来た時に、仏教僧の姿をした男が、実は仏教徒ではなく、バラモンの「なりすまし」だったと分かった時の「心の底が抜けた」感じを思い出したからです。

自分の目の前にいる「人間」は、実は中身はエイリアン(宇宙人)だった――みたいな印象です(笑)

見れば見るほど、妙な違和感が……

はっきりお伝えしておきます。この看板もフェイクです(笑)

多くの外国人観光客は「フェイク」ということにまったく気づかずに、大きなお金を寄付して帰国していく様子です。

なぜ、観光客が連れていかれる学校が「フリースクール」ばかりなのかといえば、この地のフリースクールのほとんど――ほぼ百パーセントに近いといっていい――が、寄付名目でお金を集めるビジネスの一環だからです。

ホテル、ガイド、そしてフリースクールの「校長」や「先生」、さらには子供やその親たちまでが、「外国人からお金をとる」ためのビジネスに加わってしまっているらしいのです(子供たちも実情を知っているらしいことは、実際に子供たちに会ってみて気づいたこと)。

そもそもインドには、完全無償の公立学校があります。制服もカバンも靴も支給されるのだとか。難点は教師の質があまりに低いこと(ほとんど何も教えずに時間ばかり潰して高給取りという噂がもっぱら)。

ただ、だからといってフリースクールで、まともな授業がされているかというと、それはなさそうです。村人も学校に通わせるという意識があまりなくて、子供たちは昼間から村の周りをぶらついている。そういう子供たちを集めて、「学校」を開いてみせているようなのです。

お金のある家庭の子供は、私立学校に行きます。こっちは教育の質がけっこう高い。

この地に来ると、「百人の生徒がいるフリースクール」がいっぱいあります。しかし、「教科書、授業料、ランチ、カバン、靴その他を完全無償で、百人もあずかれるフリースクール」なんて、冷静に考えるとかなり不自然。だから「外国人観光客ノ寄付ガ必要ナンデス」と言ってくるのですが、
しかし現実には、外国人が見学に来る時だけ、蜃気楼のように出現する学校ということになれば、その寄付は結局、無駄金ということになります。というか、「フリースクール・ビジネス」を展開する人間たちの懐に行くのです。

もしみなさんが、ブッダガヤの地を訪れることがあって、次のような体験をしたら、そこは「フェイク・スクール」だと考えて間違いありません――


○頼んでもいないのに、ガイドに連れて行かれる。

○「先生」が呼びかけた後で、子供たちが元気にあいさつしてくる(向こうから駆け寄ってきたり、興味津々で遠巻きに見ていたりといった動きではなく)。

○ただ座っているだけらしい子どもたちがいる。

○子供たちから話しかけてこない(あいさつしなさいと「先生」に言われて何か言ってくる)。

○子供たちの年齢がバラバラ。

○壁に、外国人観光客や、外国人サポーターの写真が並んでいる。

○「子供たちにランチをふるまいたいので寄付してほしい」とか「教科書代を寄付してほしい」といわれる(一冊200ルピーとかけっこう高額な教科書のセットで生徒一人あたり千円近くする)

○「いつ来ますか?」「何時頃来ますか?」と聞いてくる(こちらがふらりと立ち寄るという形ではなく)。

○他の外国人観光客に遭遇する。

○「先生」が教室で遊んでいる(外国人が教室に入ってから、なぜか授業らしいものを始める)。

○教室の外にパラパラと子供たちが遊んでいる。

○政府の認証を示す証明書がない

(※これは外国人が確認するのは難しい。ただ、「政府に登録してない(no registration)と、運営が大変じゃないですか?」と、こちらから聞きいてみると「ソウナンデス」と否定しない――この場合は、未登録のフェイク・スクール。

「登録しています」というなら、政府から支援を受けているはずなので、「どんな支援を受けていますか?」と確認してみる。言葉が詰まったり、説明が早口になったりする場合は、ニセモノ。

というか、外国人が連れていかれるフリースクールは、間違いなくフェイクだと思ってもらってよいです。それくらいの実情なのだと今回見えてしまいました。


――そもそも、「チャリティ」で数十人の子供を教育するということは、


公立校という受け皿がまがりなりにもある(子供の側にあえて「運営が厳しい」フリースクールに通う理由がない)こと、

よほど運営する側が、学校以外のビジネスで成功していないと不可能であること、

そもそもインド人のメンタリティからして、「与える」ということは、発想として限りなく持ちにくいこと(この点は後日説明)、


などの理由から、冷静に考えてみると「そうとう不自然」であることが見えてきます。


最近のインドの新聞にも、ブッダガヤ近辺には、「家よりも学校のほうが多い」という記事が載っていました(笑)。実体のある学校ならば、そんなに建てられるはずもありません。

外国人の印象として、「インドは貧しい人たちが多い=気の毒」という思い込み、

「慈善事業は尊い」という、キリスト教または仏教の慈悲の精神にもとづく前提があります。


だから、「チャリティ」「ソーシャルワーク」と聞くと、額面通りにとらえて「立派」と思い込んでしまいます。


そして多額の寄付をする人も出てくるのですが、

これこそが、現地の狡猾な――というか、これはインド文化そのものともいえるので、個人の気質として断罪することは難しいのだが――人間たちにとっての、格好のエサになるのです。

このフェイク・スクール、フェイク慈善事業のはじまりは、カルカッタだといいます。キリスト教会が海外から大きな寄付を受け取って運営している様子をみて、

現地のインド人が真似し始めた(どれも、Charitable Trustを称する)。


そして、デリーにも広がり、やがてブッダガヤにたどり着いたのだとか。何しろここは、全世界から観光客や巡礼者が集まる場所です。


そして、篤実な仏教徒が多い台湾やタイなどくる観光客は、気前よく巨額の「布施」をしてくれます。海外からも送金してくれる。海外からお金は湯水のように流れてきます。


インドの側としては、窮状を訴えて「恵んでください」と訴えるだけでいい。


その結果のブッダガヤの現状です。「この地は、至るところに地雷が埋まっていると言われています。細心の注意を払って足元を見ないと、すぐに騙されます」とは、とある信頼できる人の話。



――ただ、だからといって、私は、「フェイク=けしからん!」という気分には、なりませんでした。なんとも気の毒な……という思いが残ったのです。今回、現地の学校を案内してもらった自称「校長」の若い青年と、野球帽をかぶった「先生」役の青年に――。

最後の日、彼ら二人と話す時間がありました。私はこう伝えました。

「君たちの人生を、私は気にかけている。今は、君たちの心も仕事も安定していない。このままだとゆきづまりはしないか」と伝えた(フェイクだとすでに見えていましたが、そのことには触れませんでした)。

「まずは、自分の仕事を通じて、ひとに貢献すること。与えること。それで成功して得たものを、ソーシャル・ワークに使えばいい。君たちの動機が本物ならば」

そして、仏教書の現地語訳バージョンを一冊渡した。「これで勉強してみてほしい。そして、来年会った時に、何を感じたか聞かせてほしい。もっと深いところに、人生の軸を持ってほしい」。

だが、青年たちは、

「先生たちが給料の支払いを待っている」「教科書にこれだけかかる」――その額なんと12万円(笑)。もう学期が終わって、全インドの学校は休みに入っているというのに。
「もし私たちが旅行代理店を作る時には、地代とかいろいろかかる。それは助けてくれるかの」と言ってきます。

「くれ、くれ、くれ」が、彼らの最初の言葉。だが、実体のある活動をしていないから、空疎にしか聞こえない。説得力がないのです。

「キミたちが生きている社会が大変なのは知っている。だがこれは、君たちの人生だ。なにかが欲しいと言う前に、まずは自分たちでなんとかしようと頑張ってほしい。今のところ、君たちからは『言葉』しか聞こえてこない。何かが欠けているように感じてしまうのだ Something is missing.」と伝えました。

青年はなおも粘って、「将来建てたい学校の設計図」を、スマホで見せてきます。だがそんなものは、絵空事。今、現時点でやっていることに中身がない。
小さくてもいいから、ちゃんと自分たちの意志と力で中味を作ればいいのに、それをせずに「これだけの金が必要だ」とか「将来こうしたい」ということばかり。

語る言葉は立派でも、客観的にやっていることに中身がないから、ウソだとばれてしまう。

ちなみに、ウダサの学校は、ラケシュたちが自腹を切ってどんどん進めていくプロジェクトに、私が乗せてもらった感じ。彼らはけっして「おねだり」から入らない。「まずは自分たちで」というところに立って、けっして外の助けを期待しない。

「それでも、私は友だちでいるつもりだ、また来年会おう、時間はかかるかもしれないが、徐々にわかっていってくれればいい」。そう伝えました。

この二日間、時間をくれたことへの御礼として、若干の額を渡しました。だがあくまで、彼のガイドとしての仕事への対価です。彼が語った「フリー・スクール」には何も託しませんでした。
ホテルに戻ると、フロントの男性が、「アノ男ハニセモノデスヨ。昨日モココマデ入ッテコナカッタデショ」と言ってきました。「マンゴー村ノ学校ハ日本人ガ運営シテイマスヨ、唯一ノホンモノ」と言います。

だが、そのマンゴー村の学校さえ、最近ニセモノだったと判明して、日本にいる二百人のサポーターが引き上げたということを、私はすでに別の場所で聞いていました。

フェイクを作り出すのは、この地の人間たちの際限のない貪欲――どこを見ても、ニセモノ、ニセモノ、ニセモノに見えてしまって、もう語れる言葉もありませんでした。

ただ、今回偶然訊ねた日本の寺――仏心寺 ブッシンジ――が運営している小さな学校(というか私塾に近い)には、たしかな希望を感じました。

ちゃんと運営されているところは、わざわざ外国人に見学させたり、窮状を訴えてお金をくれとねだったりはしないのでしょう。

●この地を訪れる日本人や海外の観光客は、「なにかしてあげたい」と思うかもしれません。

だったら、外国語に堪能な現地ガイドを信用せずに、むしろ自分ひとりで村落を回って、病気の人がいるところを見つけて、薬やビタミンや食料を提供したりするほうが確実かもしれません。

慈善を働こうと真剣に思うなら、それくらいの労力を払わなければ、本当に慈善を受け取るにふさわしい人たちの姿は見えてこないということなのでしょう。

思えば、わずか数日滞在して、車だのバイクだのに乗って、言われるままにホイホイと見学しにいって、言われるままにお金を与えるというのは、自己満足以外の何物でもないのかもしれません。

そんなことをしても、現地の問題は解決できません。あまりに複雑で根が深いのです。


ブッダガヤを訪れるみなさんへ――


この場所は、インドで一番やっかいな、はっきりいえば「危険な場所」なのだそうです。


生老病死の苦しみっぽい光景を、この地で見かけることは簡単です。しかしその苦しみさえ、演じられたもの――フェイク――である可能性が高いようなのです。


現地を知る人から聞いた「何もしないのが最善」という言葉にも、一理あるのかもしれません。結局、外国人の自己満足程度で救えるような、底の浅い問題ではないのでしょう。


結局、この地の人々たちが変わっていくしか、変えていくしか、ないのです。

なんて腐敗した社会 What a corrupted society ――それが、今回抱くに至ったブッダガヤについての感想です。

哀しく、寂しい結末でした。


その頃日本のサラちゃんは――これこそウソのない瞳です(笑)