仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚は毎年夏! 講座・個人相談・法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

いざ年越しの「行」へ!

12月28日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今日は年納めのところが多いらしく、木枯らしの中お勤め帰りのまとまった一団をたくさん見かけました。

私は駒込までえっさほいさと自転車で走って、年内最後の講座。

昨夜27日に続けて、たくさんの方がきてくださいました。

みなさま、一年間、ご精進さまでした!


年越しというのは、一年に背負ったいろんな心の荷物を忘れるためのよい行事ですよね。

ただ、「忘れ方・抜け方」を知らないと、年が明けたら、また執着しまくりの日々が始まってしまいます。

執着して、反応し続けて、でもその執着も反応も、いまひとつプラスの成果につながらず、労多くして益少ない感じがして、

それでも、他にやりようがないから、一生懸命これまでの自分を生きて、また反応して、執着して、

ふり返っても、あまり楽しい記憶も充実感も思い出せないものだから、

「なんかあっという間だったな」「何やってたんだろうなぁ」という感想に落ち着いてしまう。

で、「よし、また来年頑張ろう!」と思うわけですが、やっぱり元々の執着グセは治っておらず……ということを、大体人間は一生分くりかえして、人生を卒業するのですね(なんかしみじみ)。

でも、そんな執着グセだけだと、気が晴れないし、重たいし、あんまりよい精神状態だと思えない。だから、

人によっては、仏教という「心を洗う道」に踏み出すわけですね。

これって、海の中を泳いでいた生き物が、陸に上がるくらいにすごいこと。

そんな新しい世界に踏み出した人たちが、この12月の最後の講座に来てくださって、

さらには全国にも、新しい人生に踏み出した人たちが、たくさんいての、この年末です。

素晴らしい一年の終わりです。お疲れさまでした。ありがとうございました。


ぜひ、来年は、「忘れ上手・抜け上手」をめざしましょう。

それは、物忘れがひどくなるということではなくて(笑)、

心をいつでも自由にできること。

ハマってしまった心の状態から自らを解放できることです。

心を自由な状態にすることが上手になれば、

自分にとって善きこと・意味のあること・喜ばしいことに心を使えるようになります。

そうすると、日々の中の充実感が増してくる。「生きている」という実感が湧いてくる。

すると、一年の終わりに「この一年はよく生きた」という納得が残ります。

納得こそが、最高のゴールです。

そういう一年になるように。2018年も精進してまいりましょう。

この一年たいへんお世話になりました。そして精進してくださいました。

新しい一年が、たくさんの発見と成長と納得をさずかる年になりますように
草薙龍瞬敬白合掌

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はここから、沈黙行――魂魄を込めて執筆行――に入ります。大晦日も正月も無し(笑)。もう2年ぶりの新刊です。

2018年に、本を通してまた真実をわかちあえるように、

そして道を求める多くの人たちともっと広く大きく出会えるように、

誠実に言葉を紡ぐ行【ぎょう】に入ります。いざ!

ラスト一週間に想うこと

12月19日朝の新幹線で名古屋へ。今年最後の講座。

車窓に、冬の澄みきった青空に富士山が美しく輝いていた。

 
講座は原始仏教のまとめと、締めのパーリ語のお経。

インドへの贈り物やお餞別を用意してくれていた人たちがいて、
「これ読んでみてください」と心理学・家族論の本を何冊も持ってきてくれたり、
自分の生い立ちを便箋にワープロで書いて持ってきてくれたりする人もあった。

みなさん、熱心に仏道を共有してくださる。じつにありがたいことだ。

●その後、残った人と小さな懇親会をやって、一件相談を務めて、法事の打ち合わせ。

●長く長い一日が終わって、新幹線で東京へ。

今日もまた、多くの人の善き心・美しき心に触れた一日だった。

私がひとときを共にするのは、相談か学びか仕事か――いずれにせよ、誰かが苦しみから解放され、また誰かが幸せに近づくことに役に立つ、明瞭な目的がある場合のみである。

この命にとって、何が楽しいのか、何が喜びになるのかといえば、

やはりひとが、己の人生に誠実に、真摯に向き合い、学び、乗り越えて、少しでも心を自由にしていく、そういう努力や姿に触れるこである。

それ以外の目的は、この人生には要らぬ。本当に、つくづくそう思う。

ひとの厚意・善意に出家がお応えできぬ時――たとえば、私の誕生日を祝って下さろうなどという、正直に言ってありがたいようでありがたくないお申し出を受ける時――は、ちょっと淋しく思う。

なかなか、出家の世界というのは理解が難しいものなのだと思ってしまうからだ。

ちなみに、人の幸せを願うことを第一とする思想・信仰の世界において、誰かが自分の誕生日を祝ってもらって喜んでいるというのは、完全に間違えている。

だから、ブッダの生誕祭みたいなものも、本当は完全にズレているのだ。そうした自己満足を形にし始めた時点で、「自分以外の誰かの幸福」という目的から自らを遠ざけて、本来の思想・信仰は瓦解してゆく。

仏教を語る世界や人間は、世の中には数多く存在する。最近ならば「マインドフルネス」もそのひとつだろう。

だが、仏教を語る人間の目的は、「自分以外」のところになければいけない。

自己満足ではいけないし、ただの言葉・理屈であってもいけない。

わかった気分になるのではなく、ひたすら実践して、自らが生涯をかけて窮めないといけない。

正直にいって、仏教という世界は、それほど軽く甘いものではない。適当に語りうるものと思ってはいけない。

安易に理屈だけで語りうるものだと勘違いしてはいないか。
それこそが認識の甘さ、自らの生き方における軽薄さではないか。

まずは、世俗の価値観を越えて生きるという孤独を引き受けて、
徹底して努力することだ。

趣味や理屈レベルではなく、もっと必死に生きることである。
でなければ、仏教がどういう思想かは、絶対にわかりはしない。


●夜遅く、神楽坂に戻ると、外に猫のサラちゃんがいた。にゃああおうと鳴く。

「おかえり、おちゅかれさま!」と言っているのか、
「もうどこに行ってたのよ、おあちょびしまちょうよ!」と言っているのか。

わかりやすく自己中なサラである。きっと後者であろう。

ということで、公園に向かう。サラは喜びに尻尾をピンと立てて、小走りで後ろを走ったり、追い越して前を走ったり。

誰もいない公園で(かなり寒いのだが)、しばし遊ぶ。

この子も、不思議な因縁で2年前の夏にやってきた。今はすっかり仲良しのお友だちである。

私は縁に恵まれている。ありがたい善意をたくさん頂戴している。

この命は不器用で、手が回らぬ、気も回らぬことばっかりのような気もするが、しかしこの命をもっと使ってもらいたいという願いは、つねにある。

ぜひ、この命に命――役割――をください。

年の瀬を走る皆みなさまが、しあわせであるように。
 
 
 

ああ、中途半端

12月15日
いよいよ師走も後半に突入した。

世間の人は、一年の締め括り、年度末で慌ただしくなさっているのだろうと思う。

私の場合は、大みそかから正月にかけてが、実は一番忙しかったりする(笑)。というのも、自分の心を深く見つめて、本に託する言葉を掘り起こす、最後の期間になるからだ(前回もそうだった)。

家庭をもたぬ出家の身の上がありがたい(?)のは、年越しや新年の挨拶・行事というのが、見事にないこと(笑)。

ありがたいのか、淋しいのかわからないが、静寂のなかに沈潜できる――。

それは喩えるなら、深海の底にひとり佇んで、何かを祈っている状態に近い。

世界の中でひとり、人々がそれぞれの家庭・つながりの中に戻っている最中に、闇の底のほんのり照らす明かりの中にいるような心境になる。

つつしみと、慈悲と、この命はまだまだ働きを果たせるという(ちょっと欲張りな)思いと――。

それは「祈る」という言葉が一番近い。そんなひとときになる。

今書き進めている本もまた、祈りのようなものだ。毎回、遺書を書くつもりで書いている。

●もうひとつ、また来年早い時期に、インドにゆく。

正直、年々、しんどくなってきたのは事実である(笑)。水も空気も食べ物も言語も人間も、何もかもが違う。どちらがラクかといえば、圧倒的に日本である。

だが、インドにゆけば、また別の使命が待っている。彼の地には、生粋の仏教徒たちがいる。彼らにとって仏教は、未来への希望である。日本から毎年訪れる出家を、心待ちにもしてくれている。

必要とされている――その事実があるかぎり、私はいかねばならないと思う。

昨年偶然発見した、パルヴァッティという部落は、インドでは実に稀有な、ヒンズーに侵されていない仏教徒コミュニティだった。

(これが人間の家かと思わざるを得ないほどの、大量の牛糞に占領されたあばら家があった。そこに棲む男も、不可触民の仏教徒だった)

彼らの祖先たちは、ブッダの像を隠し、ブッダの母マーヤを、ヒンズーの女神サラスバティに見せかけ、四聖諦を四つの、八正道を八つの石柱で表現して、仏教を守ろうとした。

だがその工夫が仇となって、四聖諦も八正道も分からなくなって、お経と言えば「ブッダン・サラナム・ガッチャーミ(私はブッダに帰依します)」の一言しか今は知らないという、哀しくなるほど危うくて、しかし篤実な仏教徒たちがいる。

彼らがブッダの道に再び邂逅することは、それだけで二五〇〇年の歴史の中に燦然と光を放つ奇跡になる。

一生かけても成し遂げなければならない、最重要な使命でもある。

ところが――私は毎年二カ月ほどしか滞在しないのである。一つひとつの場所に滞在できる期間はもっと短い。

もし私が日本での活動をすべて捨てて、現地に根を張れば、おそらく現地の言葉を覚え、英語で本を書き、道を説き、人々に、カーストや輪廻といった妄想をつきやぶって自由に生きる方法を、魂を込めて伝えるであろう。

ところが、現実には、そこになかなか到達しない。考えてみると……あまりに中途半端である。

日本でも半端者。インドでも半端者。どちらの人に向けても、スミマセンという言葉しか出て来なくなる。正直、深夜に泣けてくる(笑)。

……という夢を見た。私はほとんど夢を見ないが――妄想しないがゆえの功徳なのか(笑)――だが最近、こうした夢を見たのである。

インドの人たち。仏教を求めて、今もはっきり光明の見えない世界で生きている人たち。貧しく、地位は低く、本当に素朴に生きているが、私の目には美しく、愛らしく、ひたむきに生きている命がある。

結局私がインドの大地に戻って、また新しい命の芽を吹き返す思いがするのは、日本とはまったく異観の風景に胸がすく思いがするとともに、人々の命の美しさに当てられるからなのだろうと思う。

私はインドで一生を生きていきたい。生きて、燃え尽きて、仏道をつらぬいた出家として、インドの大地に帰りたい。

そんな夢を見た。

でも日本のみんなも好きなのである(笑)。

人生は哀しい。短くて、そして中途半端だ。

ウダサ村の夜明け

とりあえずサラちゃん

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ師走突入ですね。神楽坂は27日、駒込は28日で学び納めです。

12月は、法然・親鸞、河口慧海など、日本仏教史上の人物をめぐる教材を用意しつつ、メインテーマは参加者の質問・関心に応じて組み立てます。

第3週以降はクリスマスっぽく……やりませんので(笑)、お時間合いましたらいらしてください。

●前回のメール通信(あるいてはじめて見える景色もある)について、


「幸せであるように」と唱えるのが仏教だと思っていましたが、御著書にはあまりそういうのがないなと思っていました。

今回のメール通信を読んで、言葉だけ呪文のように唱えても意味がないから、そこを強調せず、代わりに具体的な方法として合理的な考え方を説いてくださっているのだなと思いました。

この言葉を唱えれば救われると信じることではなく、心からひとびとの幸せを祈ること、その心がけに立つこと。

この言葉の意味するところがようやく分かったような気がします。


これは仰るとおりです。私はあえて、「生きとし生けるものが幸せであるように」という慈しみの言葉を、多用しないように心がけています。

というのは、言葉というのは、状況に応じて力を持つものだからです。状況に応じて、表現も変わるのが本来の姿です。

どんな状況であれ、ひとつの決まった言葉を繰り返すというのは、もちろんその言葉に応じて心が整うというのなら意味を持ちえますが、

しかし場合によっては、状況を見ずに、また現実をふまえていかに心を整えればいいかというひと工夫(智慧)もなく、

ただ機械的に唱えてしまうという形になるおそれがあります。そうした言葉は形だけになってしまう。本当の心からの声にはなりません。考えない、つまり心をしっかり使わない形だけの宗教になってしまいます。

結果的に、自分がまだ乗り越えられていない弱さ――慢とか利欲とか足元のテーマ――はそのままに、言葉だけ呪文のように唱えている、という状態になってしまうことがあります。

ただ、それでは現実的な解決にならないことは、おわかりいただけるのではないでしょうか。

形だけの言葉にとらわれないように。私はそう考えます。

つねに生きた言葉でないと。心の底でしっかり確かめている状態でないと。肚の底から想うようにしないと――。

●ちなみに、自分自身のあり方については、「○○でありますように」ではなく、

「○○をめざします」というのが、正しい考え方です。

自身の幸福も夢も目標も、「ありますように」という婉曲的(遠回しの)思いではなく、

自分の努力・心がけによって実現するもの。その意味で、

「私は○○をめざします」「○○への道を歩みます」という決意、覚悟、宣言が正しい言葉です。

自分の方向性は、自分で決める。決めたら、忘れない。つねに思い出して、その方向性に進んでいく。

めざすことを、仏教では「信を持つ」といいます――『反応しない練習』KADOKAWAに書いてありますが――方向性を見定めて動じない、という意味です。

これに対して、他者の幸せや、世界のあり方については、自分の力だけではいかんともしがたい領域なので、執着を控えるという意味もあって、

「でありますように」という婉曲的な、願いの表現になります。これを「誓願」といいます。

「信を持つ」のと「誓願する」というのは、じつは違うのです。

●もちろん、自分自身の未来についても、実現が難しい、可能性が高くない、その意味で願うしかない遠い地平というのはありえます。

その場合は、執着はできないので、「○○でありますように」と、願うことになるかもしれません。

ただその場合も、自分でコントロールできる領域にまで落とし込むことが大事だと思います。

自分の心がけ・努力次第でできること。そこまで具体化して、「○○に努めます。そして、○○をめざします」という考え方に置き換えるのです。

しっかりめざすこと。方向性を見すえて、
今できること・なすべきことを確かめて、
心を尽くすこと。

その道のりの先に、よき成果がついてくる「可能性」が生まれます。

●3月中旬発売予定の新刊では、世俗的な成功や価値を追いかけるのではなく、

心の解放を、自由を、
「自分の人生を生きているという実感」を、
変わらぬ日常のなかで手に入れる生き方 
をめざします。


いろいろと気を重たくする物事が起きる日々の中で、心の自由・解放をめざすのです。

宗教じゃない。「出家」でもない。もっと大切なのは、私たちが生きていかざるを得ない、ときに孤独でつらさを伴うこのふつうの日々のなかで、もっと自分らしく、もっと自由に生きていく方法です。

その道すじを明かす本になります。

今回も自分の一筆で一字一句誠心こめて書き込んでおります。お楽しみに。

※サラちゃんも一緒です:

一緒に読書中のサラちゃん


上機嫌のサラちゃん

西郷どんと幸福のタネ

2017年11月18日
こんにちは、草薙龍瞬です。 ※写真公開は数日後

昨日まで鹿児島にいました。
企業経営者の方々向けの講演会でした。

毎回感じることですが、初めての相手に、しかもかなりの大人数に、ブディズムを伝えるというのは難しい(笑)。

今回についていえば、「マインドフルネス」という言葉を聞いたことがあった人は、百名ちゅう2,3名。びっくりですが、現実はそれくらいなのですね。

そもそも、人間は「自分の心の状態を理解する」という発想がない。心ひとつを外の世界に反応することに使いつづけて、その状態が「おかしいのでは?」と思う発想がない。

まして、今の時代のように、欲と慢と怒りと妄想とが、国家間レベルでも、メディアレベルでも、さも当然のごとく正当化されてしまう状況にあって、

「心を理解し、心の動きを止めないと、さらなる危機を招くことになる」という真実に目が覚めるというのは、本当に難しいことなのです。

(仏教を知っている・学んでいるみなさまは、本当に「意識高い系」のひとたちなのです。)

◎さて、来年の大河ドラマが「西郷どん」という頃合いにうまく重なり、今回は主催者の方々のはからいで、いくつかの観光スポットを案内していただいた。

西郷隆盛が西南戦争で自死する直前の五日間籠城したという小さな洞窟(穴は小さくて冷たかった)。

西郷どんとその同志たち――殉死したなかには14、5歳の少年たちも。それくらい西郷どんは圧倒的な包容力をもって慕われていたらしい――が眠る神社。

(※墓があるのが寺ではなく神社というところが、廃仏毀釈を進めた明治政府の元締め・薩摩藩らしい(笑)。その薩摩藩をも越える地平を見すえていた西郷氏とその同志たちに敬意を払えば、お上目線の「西南の役」ではなく「西南戦争」と呼びたくなる。)

政府に逆らうつもりはなかったが、その徳の大きさゆえに結果的に反乱分子の引率者としての役割を担わされるに至ったせつない人生の一端を垣間見る思いがする。掘り下げていくと、西郷どんの人生はかなり面白そう。

【写真 いろんな烈しさとせつなさの舞台になった鹿児島の景色】



●そのあと桜島へ。毎日のように噴火している活火山をこんなに近くに見るのは初めて。

(こんな景観毎日見ていたら、人格に影響しないのかなと思ったが、なんとあの長渕剛氏は、桜島をこよなく愛し、7万5千人も船で運んでオールナイトライブをやったそうな(笑)。)

写真【長淵、吠える!】

最後に立ち寄った展望台は、大正3年の大噴火で距離400メートルあった海が溶岩で埋まり、二つの島を地続きにしてしまったという、その溶岩の上に作られたもの。

もう日は暮れて薄暗く、冷たい風が吹き、奇怪な形をした巌がゴロゴロしていて、周りには人家もなく、人間一人としていないという、恐怖さえ感じる荒涼たる世界に、ただひとり――この瞬間が今回一番印象に残ったかも。かつてこれほどに殺伐とした心象風景の中にかつて自分がいた時代があったなあという感慨も。

【写真 こんな心象風景の中で死ななくてよかった(笑)】

タクシーの運転手の方に聞くところによると、西郷家や島津家の末裔は、今も健在で鹿児島在住なのだそうだ。歴史上の人物の子孫が、今も生きているなんて、不思議な感じ。子供を持つって、すごいことかも。あと何百年もあとの未来社会に、「自分の子孫」が生きているかもしれないのだ。

ひとりの人生はあまりに短く小さい。家族を持つことで苦悩が生まれるという逆展開もありうるが(笑)、大きな視点でみれば、多少の苦悩は差しおいても、子孫へとつなげていくための小さな「橋」になることは、悪くないかもしれない。

もちろん私自身は、橋になる機会はなく、この小さな肉塊をもって消えていくのだろう。とはいえ、その人生に一片の不足もない。「足りないもの」を妄想しなければ、どのような人生も、それ自体で完結した、なにひとつ足りぬものなどない、完全な作品である。孤独感など生まれようもない。

ただ多少なりとも妄想を広げてみれば、ふつうに命の営みを重ねて、子孫へとつないでいく人生もある。そうした人生もまた尊い。

子孫を残さない人生と、残る人生とは、まったく違うものであって、比較しようがない。それは、ガラパゴス諸島に生きる生き物と、アラスカ半島に生きる種とが、まったく相交わらないまま、それぞれに完結した一生を送っていることに似ている。彼らは「不足」など夢にも思わぬだろう。

二つの異質の世界に生きるものたちは、自分以外の他者の人生を想像するという発想がないから、それぞれに完全なのである。

◎ただ、もしいずれかの世界に住む生き物が、遠く隔たる世界に生きる人生を想い、少しでもその人生においてこそ体験できるであろう喜びを夢想したら、そのときは一抹の淋しさを感じるに違いない。

その淋しさは、感じないほうが幸せなのか、それとも感じるほうが幸せなのか。

たぶん、いずれも幸せである。

淋しさを知らなければ、おのれの人生だけに満ち足りて生きられるし、

淋しさを知っていれば、それだけ自分の人生・他者の人生のかけがえのなさを実感できるだろうから。

◎九州最南端に到達したのは、人生史上初めてのことだった。ここにもたくさんの、自分が知らない人生があること――生まれて、生きて、消えていく無数の命のありよう――を見て、せつなくなった。私がこの地に生まれて、この地に育っていたら、どんな人生になったであろうか(「私」を前提とする完全な妄想・誤謬だが(笑))。

もうひとつ個人的に面白かったのは、宿泊したホテルの見晴らしの良い高台に、「二人のきずなを永遠にする」オブジェがあったこと。フロントでもらった錠前に二人の名前を書いて、高台にあるステンレス製のハートマークのオブジェにロックする。すると二人には、離れようにも離れない永遠の絆がもたらされる、という趣向。

【写真 これで二人は永遠】

離れたくなっても離れられないというのは、見方によっては恐ろしい話だが(笑)、「こんな関係になればいい」という願いを象徴するものとしては、楽しい工夫である。

もちろん必要なのは、外れない錠前のような固い絆を作るには、どんな心がけをいま大事にすればいいかということで、それはやはり慈・悲・喜・捨ということになるだろう。

未来を夢見る二人が、フロントで錠前を受け取って、この場所に来たら「永遠のきずなを育てる秘密の言葉」(慈悲喜捨)が入った洒落たカプセルが下がっていて、それを受け取って、代わりに二人の名を書いた錠前をロックするというあり方なら、もっといいかも――と野暮な妄想をする私は坊さん(笑)。

◎このホテル、夜はイルミネーションに彩られる。歩いていると噴水広場に。いきなりクリスマスソングが流れだした。そのメロディに合わせて、噴水が高低を変え、照明の色もまた鮮やかに変わる。

【写真 水も光も音楽に合わせて踊る】

ジョイ・トゥ・ザ・ワールド♪とか、マライア・キャリーのクリスマスソングとか、豪華なラインアップが次々と流れるなか、噴水も光もそれにあわせて踊る。そして眼下には鹿児島市街のきらめく灯【ひ】が一望できる。

笑ってしまった。じつに愛ある演出だ。新婚旅行の二人にはぴったりだが、眺めているのは、そういうシチュエーションにまるで縁のない一介の出家である。

噴水のまわりには、カップルも、幼子をつれた若夫婦もいた。
みんなが幸せでありますように。


◎幸せの作り方は、人生によってさまざまである。この世界の幸福は、ひとりひとりの、種類の異なる幸せが支えている。

あんな幸せもあれば、こんな幸せもある。それぞれが役割を負っている。それぞれがささやかな幸せをその人生のうちに育てることで、この世界の幸福の総量が増える。

ちがう人生のなかで、幸せを育てること。そうして世界に幸せそのものが生き延びてゆければ、それもまた大きな目で見れば、違うタイプの子孫繁栄ということになる。

独りの人生では、「幸福な子」は育てられないが、「幸福の種子」は育てられる可能性がある。それは、小さな人生のたしかな動機、生きる意味である。

人間は、幸福への種をまくだけでよい。
というか、そんな思いを胸にもつことが、すべての未来への橋になる。

【写真 羽田の空のきらめく灯】




11月の講座案内&衝動買いの抑え方

【お知らせ】
★11月・12月の仏教講座は、いよいよ総集編――

○実用的なテーマをもとに原始仏教を解説
 あわせて、
○日本仏教に関するオリジナル教材を毎回配布【講義つき】
○質疑応答


の3本立てで構成します。

※日本仏教の教材は次の通りです(●部分が教材名。同じタイトルの場合は教材同じ。ただし追加資料は毎回変わる可能性があります)。

11月 3日(金)10:00 ~ 12:00 生き方としての仏教講座 神楽坂 
●禅の世界~心を清浄にする技術&道元の思想 
11月 9日(木)14:00 ~ 16:00 駒込・仏教のすべてを学べる講座 駒込地域文化創造館 
●空海~自由な生き方を始めよう 
11月 9日(木)19:00 ~ 21:00 生き方としての仏教講座 神楽坂 
●禅の世界~心を清浄にする技術&道元の思想  
11月 10日(金)18:30 ~ 20:30 自由な心にたどり着くための仏教・原始仏教編 朝日カルチャー新宿
11月 15日(水)10:30~12:00 東急BE二子玉川/13:30~15:00東急BEたまプラーザ 座禅エクササイズと「心がラクになる」仏教こばなし
11月16日~17日 鹿児島・講演会 ★個人相談可
11月18日(土)18:00~20:30 生き方としての仏教講座 神楽坂 
●種田山頭火~業は越えられるか 
11月20日(月)19:00 ~21:00 生き方としての仏教講座 神楽坂 
●種田山頭火~業は越えられるか
11月21日(火)10:30~12:00 名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 栄中日文化センタ
11月23日(木祝)14:00 ~16:00 生き方としての仏教講座 神楽坂 
●法然~新しい人生に踏み出す勇気
11月23日(木祝)18:00 ~20:00   座禅会 解説ガイドブック&座談会つき 神楽坂
11月30日(木)14:00 ~16:00 駒込・仏教のすべてを学べる講座 駒込地域文化創造館 
●最澄~人生を変える覚悟の固め方

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは、草薙龍瞬です。

●毎日、新刊の原稿をいそいそと書いています。サラは外でひとりで遊んで、飽きたら戻ってきて、窓べりにひょっこり顔を覗かせ、膝に乗せてやるとゴロゴロしています。

●最近のおたよりです。坐禅会に参加した方の感想です――


私は、いつから勘違いしていたのか?

これまで「妄想が出てきたときに、それをラべリングしたり感覚に集中して、消すこと」をせっせと行っておりました?!←言い換えますと「妄想を出待ちしていました!?」

今日の座禅会で、龍瞬先生がわかりやすく、そして何度も力強くお話くださり、ハッとしました。

雑念が出てくる前に、いいえ、雑念が入る余地のないような強い心の状態、集中した心の状態を保つ=これが心にとって最高の状態、理解しているという状態。

かなりの集中力が必要とも思いますが、
今までのように、雑念を出し放題にして受け止め対処するよりは、
また、それでも出てきたら対処すればいいのであれば、疲れないかとも思いました。

お恥ずかしい限りですが、私、大きな勘違いをしていましたでしょうか??
いま、気分が晴れ晴れした感覚です。ありがとうございます。


●「妄想が出たあとに気づいて消す」というのは、もちろん妄想をリセットする基本ですね。

ただもうひとつは、最初から感覚を意識し、理解するという心がけに立って反応しないようにして、妄想を未然に防ぐという状態があります。

禅の修行というのは、むしろ後者の方が近いかもしれません。最初から妄想せずに、反応せずに、理解しているだけの心の状態です。

反応してしまう⇒その後にリセットする、というのと、

反応を最初からしない=ただ理解するという前提に立っている、というのとでは、

やはり心の持ち方はかなり違うだろうと思います。この方は、かなり大きな違いに気づいたことになります。素晴らしい!


帰り道、ついついコンビニ(スイーツ)に寄ろうとしましたが、「雑念(誘惑)が出てくる前に集中」と心で唱え、足の裏を意識したら、お店に入ろうと思わなくなりました。
やはり仏教は、ダイエットにも繋がると思います(^^)


●「スイーツ」は、最初の段階では「妄想」ということになりますね。「どうしようかな」「あ、スイーツ」「欲しい」という、反応の連鎖のはての衝動買いです。


妄想が減れば、欲望は減ります。欲しい物って、あんがい少ないかもしれません。

そうそう! 今日スーパーでヤクルト・ジョアの「まろやかハニー味」を発見! 

事前に妄想はしませんでしたが、見てすぐに買いました(笑)。


大きなもの

今回は、とても私的な内容です……。ただ自分のなかで、忘れてはいけない、覚えておきたいという思いがとても強く残りましたので、なるべく詳細に、当日の日の思いを言葉に残すことに致しました――。
 

10月22日(日)

午後、サラちゃんを置いて愛知へ出発。サラは私が家をまた離れることを知っているのか、机の下のモフモフボックスに入ったきり。台風前夜ですでに風雨が増している。中を覗いて「言ってくるよ」というと、スネているのか細い声でニャァと奥で鳴く。

豊橋から岡崎、愛知環状鉄道で新豊田へ。あの伝説の?トヨタシティにいよいよ入ったのである。

ほんとは明日入る予定だったが、超大型台風21号が接近しているとのことで、前夜入りを手配してくださったのであった。夜も宿で「予習」した(笑)。トヨタ(さま)の歴史を知れば知るほど、仏教と重なるところを感じ、また今の日本の文化や経済にどれほど大事な位置を占めておられるのかがわかってきて、自然と熱が入るのである。

夜、窓の外は激しい風雨。ちょこっとテレビをつけると、衆院選の速報をやっている。

風雨増し始めた夜の新豊田駅周辺


10月23日(月)


朝9時に迎えに来てくださる。トヨタの車に乗っていよいよ三河豊田の本社がある一角へ。今回の話をいただいてから、街を走るトヨタの車に気づくようになった(笑)。

まるで大きな寺社仏閣にお参りする気分である。午前と午後に、講演の機会をいただいた。


●今回は、トヨタ自動車の歴史や思想を、自分なりに学ばせていただきつつ、準備した。トヨタ・グループの創始者である豊田佐吉翁は、大正時代に十代をすごし、地元の木造りの集会所「観音堂」でいろんな本を読んで勉強したこと、寺に通って胆力を養ったこと、

二宮尊徳の思想を学んで「至誠・勤労・分度・推譲」に「報徳」――今の言葉でいえば、心を尽くし勤勉に働き、華美を戒め、謙虚に、自らの働きを果たすことで恩に報いる――という心がまえのもとに自動織機の改善・開発に取り組んだこと等を知った。

この大企業の方々がことあるごとに、「お客様のため」「社会・地域への貢献」を語ることには、たしかな背景があるのだ。トヨタという大企業に一貫して流れているものは、利欲ではなく、世のため・人のためという貢献と報徳(恩に報いるために勤勉に働く)という思想なのだと、学ぶにつれて感じ入った。

世の中、万単位の企業が存在するが、自由市場経済において勝ち抜く力と、人間への思いやり=倫理の両輪を兼ね備えた組織は多くないように思う。

特に、欧米系の、貪欲をモチベーションとしているように映らなくもない企業文化と、トヨタに代表される、奉仕、貢献、国・社会・人間のためという日本的な企業文化とは、その根本に流れる思想からして違う気がしてくる。

今回、自分なりに学ばせていただいて興味深かったのは、過去、さまざまな仏教者の生きざま・思想を調べているときに感じた感銘と昂奮を、奇しくもトヨタグループの歴史にも同じように感じたことだった。率直にいうなら、魅力があるのである。人間として惹かれるものを大いに感じてしまったのだ(笑)。


●意外と仏教と接点が多いらしいと気づき、はて私なぞにお役に立てることって何だろうと思った時に出てきたのが、「心のムダを防ぐ」という視点だった。仏教的に言うなら「妨げ」であり、「蓋(心の働きを覆うもの)」である。貪欲、怒り、妄想その他の、「妨げ」を理解して、そこから抜ける。その練習をする。

その練習法としてマインドフルネスを紹介させていただいた。


●さらに、私が日ごろインドの現状を見て感じていること――滅ぼしてはいけない、勝たねばいけない、守らねばいけない、でなければ、子々孫々、多くの新しい命が苦しみ続けるということも、お話した。

インドでは12世紀に仏教は滅びてしまった。なぜか? ひとつは、仏教に生きる僧侶たちが、バラモン教とは異なる「人間を幸せにする可能性」をアピールできなかったこと。要は、怠慢であり傲慢だったのである。

彼らは、自分たちの地位・権益を守ることを第一としつつ、輪廻を説き、バラモン教に似た神々――如来だの菩薩だの――を「発明」して、バラモン教類似の価値観のなかで、表面的な人気取りに走った。

その結果、ご利益(りやく)があるのは、バラモンの神々も仏教の仏たちも、大して変わらないという認識に、人々は落ち着いた。

そんな人々に、仏教僧たちが説いたのは、「自分たちに布施をすれば功徳を積めて、よき来世に生まれ変わる」という安易な輪廻信仰だった。

また、一部の僧たちは、教義を複雑化し、儀礼に走り、瞑想に逃げた。

人々にとって、バラモン教と何が違うのかよくわからない、ただ複雑難解な教義と瞑想とを取り混ぜた世界に生きる出家者たち。

そんな彼らへの弾圧は、7世紀以降、バラモン教徒たちの手によって本格化した。彼らは、仏教寺院を破壊し、仏像などのアイコンを壊し、バラモンの祠へと片端から作り変えていった。これに対抗するべく立ち上がる仏教徒は、あまり多くなかったに違いない。

12世紀にムスリム教徒の侵攻を受けたことが、決定的な破壊になった。

そして……仏教はインドで滅びてしまった。現ビハール州の「ビハール」とは、もともと「寺」の意味だが、今現地に仏教寺院はほとんど残っていない。

仏教が滅びたのち、インドに何が起きたかと言えば、カーストの増大だった。今日、2400近くのメイン・カーストの下それぞれに、一ダースほどの下位カーストがついて、総計4万を超すカーストの網の目に、インドの人々は絡めとられている。

私が、ナグプールの地でめぐりあった、不可触民(カーストにも入れないアウトカーストの人々)は、こうした「仏教が滅びた後」のインドで、差別を強いられるに至った人々である。


もし、インドで、仏教が滅びていなければ――。


それが、私に強く残る思いである。仏教が滅びさえしなければ、インドはもっと人間に優しい国になっていたかもしれない。

だが仏教は、あの地で、弱かった、守り切れなかった、生き残れなかった。そして、現実に対して無知・無防備であった。

負ければ、滅びる。その結果、多くの人たちが苦しむ。

それが、私が仏教の歴史を通して得た教訓である。


●私が今回、トヨタの皆さまと共有したかったのは、「危機感」だった。

私が今回学んで感じたのは、トヨタという日本の産業を代表する大企業の源流には、先代の方々の――私たち門外漢のふつうの日本人にとっては伝説上の偉人に見えてしまう豊田佐吉翁とか、その御子息の喜一郎氏(トヨタ自動車の実質的創立者)の――

智慧と根性と思いやりという〝心の遺伝子〟 があるということだった。

智慧とは、改善・工夫のことであり、根性というのは、失敗にめげない・反応しない、試練を当たり前のように受け止める心がまえのことである。

そしてトヨタという企業に一素人である私が感銘を受けるのは、従業員のため、ディーラーや関連企業の人々、さらに何よりもお客様のため、という経営者以外の人々への誠実さと思いやりの深さだ。仏教でいうなら慈悲の心。

それを創立以来、守り抜き、なおかつ熾烈な開発競争に打ち勝ってきたところが、瞠目的にすごいところなのである。

この日本独自の文化ともいうべき勤勉さと誠実さと社会への貢献という志を体現してきたトヨタという稀有な企業に、一素人としてじつに僭越な感想ながらも、是が非でも勝ち続けてほしい、そして〝心の遺伝子〟を守り抜いてほしい、というエールに似た思いを感じざるを得なかった。その部分が、人間として伝えたい部分だった。


今の時代、日本の製造業は、素人の私にさえ危機を感じさせる状況にある。いいモノを作っても売れるとは限らない。人口も急激に減りつつあるし、人々の需要も急変しつつある。政治に翻弄されるのはいつの時代も同じだが、今や自由主義経済さえ軽視される、危なっかしい時代である。

「車」という概念そのものさえ、変わりつつある未曽有の時代である。

さらには、ネット・スマホ・ゲームといったヴァーチャルな空間に人の心をいざなう新種の産業がある。外に活動すること・肉体の感覚を楽しむことさえ、なんだか一種の「文化」としてとらえ直さねばならぬかのような、社会の激変ぶりである。


(今日聞いた話だが、刈谷市では午後9時以降の小中学生のスマホ利用を禁止したという。これは正しいことだ。「反応したいだけの心」の赴くままに任せていたら、どんどんヴァーチャル依存が進んでいく。

だがそうしたあり方から、勤勉、創造、相互信頼は、どれくらい生まれるのだろうか。悪意や妄想の垂れ流しをコントロールできない空間というのは、利用するにはあまりに危険であり、発展途上といわざるをえない。

こうした空間への「依存」が進めば、社会の活力・生産力は、必ず低下していく。中国・韓国などではすでにゲームなどの規制を国策として実施しているという。日本も真剣に考えないといけない。

心は放っておけばよい方向に向かうというものではない。むしろ堕落・停滞することもある。心、文化、社会は、意志をもって育てるべきものである。どんな方向性をめざすかは、人間の側で選択すべきものである。)


●こうした時代において、クルマという産業が持続・発展していくことは、易しいことではないだろうう。ましてトヨタ自動車の社会・地域への貢献、人々への思いやりといった〝心の遺伝子〟を守り、なおかつ勝ち続けることは、本当に難しいことではないかと、素人ながらに感じる。


もうひとつ今回感じたのは、トヨタに関連する本はたくさん出ているが、それらはどうしても「トヨタはこうして成功した」という模範化された物語や分析だったり、過去の驚異的な成功を支えた伝説上の人物群像だったりしてしまう。いずれも、きれいに加工された語りなのである。

だが、実際の車づくりの現場というのは、本当に地道で緻密な、数千、数万を超す試行錯誤と改善と創意工夫の連続らしい様子である。

その積み重ねの上澄みの一番きれいな部分が、「自動車」として、私たちの目に触れているらしいのである。

堅実という言葉さえはるかに超えるその努力の万分の一が、ちらりと垣間見えたような気もした。こういう誠実な人々の働きのおかげで、トヨタの車は世界中を走り、日本の経済は回っている。ただ感じ入るほかなかった。


●午後、レクサスという高級車に乗せていただいて、名古屋まで送っていただいた。出家として、一生に一度かもしれない?貴重な体験だった(笑)。

世界に五百台しかないというレクサスLFAなんて、「匠」と呼ばれるプロフェッショナルが総力を結集して作り上げたもので、そのプロセスも完成品も、至高の芸術作品みたいなものである。


すごい世界を垣間見てしまった(笑)。技術と産業とココロザシの最先端を走る世界。


帰り路に遭遇した、台風一過の空に落ち始める日の金色[こんじき]が美しかった。




●なんか、終わっちゃった――という感じ。今回は、事前の打ち合わせも重ねていただいて、自分なりに微力ながらも勉強させていただいて、何がお役に立てるのかな、と考え続けた果てのあっという間のいっときだった。お祭りが終わった後の淋しい感じに似ている(笑)。美しい郷[さと]を後にしたような寂寥が残った。

伝えきれなかった思いのほうがもちろん強く残ったが、それでも日本経済を牽引し、また日本固有の尊い精神性、思いやりと技の卓越さを象徴する素晴らしい大企業の方々に、お会いできたことが光栄であり、ありがたかった。

もしいつかまたお会いできる機会があれば、そのときは今日以上にお役に立てるように、自分も心と技を磨こうと思った。ご一緒くださったトヨタ自動車の方々、本当にありがとうございました。


私もまた読者の方の幸福にお役に立てるような良質の本を送りだしてゆきたい。人間の営みはすべて、ひとを苦しませる方角ではなく、ひとを幸福へといざなってゆく方向にあるはずである。そうでなければいけないのである。

その方向を、読者の方々が共有してくれるような、私もまた「匠」をめざしたいと願うものである。


とても大きな体験だった。謙虚さと感謝と覚悟を与えられた一日だった。


※個人的な体験を語ることは、ためらう性分――あくまでひとさまと共有しうる仏教をお伝えすることが、この身の務め――ですが、いろんな感銘と学びをさずかった貴重な体験でしたので、あえて言葉にさせていただきました。ご理解いただければ、たいへん幸いです。


※そんな23日、トヨタ自動車から新車の発表がありました。十人単位のエンジニアの方が、タクシー会社を訪れて意見を聞き、乗客への「思いやり」を細部に、そして起業当時からお世話になっているタクシー業界への「報恩」を込めた新車なのだそうです(このあたりの心遣いが、私にはせつないほど響くのです)。街なかで見つける日が楽しみです。










出家、日本をゆく(日記2017年9月第5週)


こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ10月入り。肌寒くなってきました。2017年もあとわずか三カ月!

やりきれぬまま残っている宿題がたくさんあります(; ;)。もうしわけありません……。


+++++++++++++++++++

金 10月 13日 18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 自由な心にたどり着くための仏教・原始仏教編 第1回(全3回)

土 10月 14日 10:00 ~ 12:00
東武カルチュア 仏教は「上手な生き方&心の使い方」 - 東武カルチュア池袋校

月 10月 16日 18:30 ~ 21:00
座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

火 10月 17日 10:30 ~ 12:00
名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 その6・最後はやすらぎに帰る 栄中日文化センター

水 10月 18日 10:30 ~ 12:00東急BE二子玉川/13:30 ~ 15:00 東急BEたまプラーザ
座禅エクササイズと「心がラクになる」仏教こばなし

木 10月 19日 18:30 ~ 21:00
生き方としての仏教講座 神楽坂・赤城生涯学習館 教養A室 
特別編「苦しみの繰り返しを抜ける道」種田山頭火と原始仏教(解脱への道)

金 10月 20日 焼津講演会
★静岡・浜松・焼津近辺でご相談がある方、ご連絡下さい。
木 2017年 10月 26日 14:00 ~ 16:00
駒込・仏教のすべてを学べる講座 駒込地域文化創造館 JR駒込駅北口駅前すぐ

金 2017年 10月 27日 13:00 ~ 15:00
金曜午後のまったり座禅会 法話&茶話会つき  神楽坂・赤城生涯学習館 和室

土 2017年 10月 28日 10:00 ~ 12:00
東武カルチュア 仏教は「上手な生き方&心の使い方」 東武カルチュア池袋校

月 2017年 10月 30日 18:30 ~ 21:00
座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

金祝 2017年 11月 3日 10:00 ~ 12:00
生き方としての仏教講座 神楽坂・赤城生涯学習館 教養A室 「心を洗う修行法」

++++++++++++++++++++++++++++


出家、日本をゆく 2017年9月5週

9月26日(火)東武カルチュア

○心の苦しみを作っている最大のものは執着――その執着をもたらすのは、反応(漏れ)と業。

人間はたいてい、執着したまま生きていく。その執着がどこから来ているのか、どこにたどり着くのかも知らない(無明)のまま。 そこを抜けて、解放をめざすのがブディズム。

○午後、リクルート・Worksご取材。


9月28(木)駒込

○種田山頭火の続き。永平寺参籠(結局、元の木阿弥)まで。

○業は遺伝する。業が世代につれて減っていくのが、人間の進化。

○業を遺伝させないためには? ひとつは「親にはこんな業がある」と笑っていえるようになること。


9月29日(金)朝日カルチャー新宿

○教材「清浄行」(輪廻+流れる丸太)の続き。自分は蓮の花だと思って、にっくき家族づきあいを修行と思って頑張ろう(笑)。

○104歳の禅師・宮崎奕保老師(曹洞宗第78代管主)の映像。

※私はこの番組を深夜に見て、仏道の世界に関心を持つようになった。

居場所を求めて旅に出た。徳島の山深くの禅寺を訪問。無職の20代・30代の青年たち5人をあずかり、托鉢して食わせていた(ちょうどインスタントラーメンを茹でていた(笑))。

この寺で5年修行すれば、永平寺に世話してあげると言っていた。

日本昔話に出てくるような山奥の簡素な寺。働かない青年たちとお堂に起居している不思議な禅僧。「ここに5年……」というのが不安だった。大丈夫かな???という感じ。

結局その後、東北に向かい、さらにインドにゆき――。良かったのだと思う。

インドで仏教の現実を知り、ミャンマーの大学で仏教を体系的に学び、瞑想法を学び、あとは特技である独学で突っ走って、めざしたものを得た。

私の人生はこういうものである。誰かに仕えて忠実に学んでいくという道は取れない。どの人間の言葉も、度の合わない眼鏡をかけさせられている気になってしまう。

本質をつかむこと。慈悲にもとづいて、方法へと昇華すること。かつての独学時代は、こうした学び方の洗練・熟成のためにあった気がしてくる。今は、お役に立てればそれでよしである。


夜10時前に帰宅。椅子に座ると暖かい。サラが座っていたらしい(笑)(最近、椅子に味を占めた様子)。

ペットは飼い主に似るというが、本当だろうか。サラはマタタビに興味を示さない(何よ、バカにしてんの、という感じ)。快楽に耽らない。外に出ずっぱりで戻ってこない。独立独歩。そのくせ戻ってくると、膝の上でゴロゴロと甘えんぼ(ツンデレ?)。たまに公園で見かけると、灌木の下で瞑想?している。鶏肉が大好き。もともと公園に捨てられて一人ぽっちであった。いわば出家つながり?――たしかに共通項が多いといえなくもない?


次の本の原稿、いよいよ大詰め――ふたたび唯一無二の、純粋で美しい言葉が生まれるようになった。未来に自分で読み返して、心打たれるくらいの珠玉の言葉が理想である。




2017年全国行脚無事終了!

《興道の里・日程》
●9月14日​(木)​ 14:00 ~ 16:00 駒込・仏教のすべてを学べる講座 草薙龍瞬 - 駒込地域文化創造館 JR駒込駅北口駅前すぐ
●9月15日(金) ​18:30 ~ 20:30 朝日カルチャー新宿「悩みを溜めない仏教式・心の使い方」第1回(全2回) - 朝日カルチャー新宿
●9月19日(火)10:30 ~ 12:00 名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」​ 中日文化センター
●9月 23日(土)18:00 ~ 20:30 夜の座禅会 - 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

●9月 26日(火)​13:00 ~ 15:00 東武池袋 座禅エクササイズと仏教こばなし - 東武カルチュア 池袋校
●9月 28日​(木)​ 14:00 ~ 16:00 駒込・仏教のすべてを学べる講座 草薙龍瞬 - 駒込地域文化創造館 JR駒込駅北口駅前すぐ

●9月 29日(金) 18:30 ~ 20:30 朝日カルチャー新宿「悩みを溜めない仏教式・心の使い方」第2回(全2回) - 朝日カルチャー新宿


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは、草薙龍瞬です。

○2017年の全国行脚、無事、終了いたしました。

北は青森五所川原から南は、福岡博多まで。7月の兵庫・六甲道に始まって、9月11日の静岡・三島での法話会で終了。

お会いできた方々は数え切れず。講座、法話会、個人相談、法事などなど――

しかもそのおひとりおひとりとの出会いは、「真摯に仏教という道を分かち合う」という純粋な動機にもとづいてのもの。じつに有意義で、実りある旅となりました。


その一方で、お会いできなかった方々もおられます。

いつか最善の形でお会いできるはずです――機運そろうその日まで、ココロザシをもって歩き続けてまいりましょう。


○さて、

ひとはときに、先の見えない迷路、暗闇しか見えないような時が訪れます。

しかし、そうした目の前に映るものと、自身の心とは、まったく別のものです。

心が目の前に容易に反応して、暗い妄想や怒りにとらわれてしまえば、そのときは、心そのものが、迷路・暗闇と一緒の状態になります。

そんなとき、ひとは自分が苦しみを抱えたのは、目の前の現実のせいだと思いたがります。怒り・悲しみも湧いてくるでしょう。

しかし、真実はそうではありません。


重要なのは、このとき、

「目の前の現実」――事故・出来事・ままならない他者――と、

「自分の心」とを、しっかり分けられるかどうかです。


「自分の心」に責任を持てる者、「自分の心」を救い出せるのは、自分以外にありません。

そのときに、外の世界を恨まず、憎まず、「外の現実がどうであるかとは別に」、

自分の心をいかに保つか、守るか、こそが大切になります。


自分の心がかき乱されてしまえば・怒りや暗い妄想に囚われてしまえば、

この後の人生の「前提」である「心」そのものが、マイナスを作り出す原因そのものになります。

自分の心が善からぬ状態にとらわれてしまえば、この先もまた善からぬ出来事が続くことになるでしょう。

人生とは、「外の世界」と「心」との「関わり」によって成り立っています。とすれば、心こそが出発点になります。たなぼた(運・奇跡)はありません。


○今後の人生とは、いわば水面に浮かぶ「飛び石」を歩くようなもの。

みな、飛び石を選んで歩き続けていくわけですが、その飛び石の「色」、つまり自分が体験する思いの色は、自分の心次第で、変わります。

もし自分で目の前の「飛び石」を黒く塗ってしまえば、黒い飛び石のうえに乗っかることになります。

そして「なんで自分が載る飛び石は、どれもこんなに黒いんだ?、

なぜ自分だけこんな飛び石に出くわすんだ?、

それとも自分の運命がもともと悪いものか?と、嘆きたくなったりします。


このとき大切なのは、エイヤ!と目先を変えて、「自分の手のほうを見る」ことなのです。手に持っているペンキは、何色なのか?

心という名のペンキが「黒」ならば、次の飛び石、次の反応は、必ず黒になります。だから、ひとまず、黒のペンキを白に入れ替えることに努めることが、最初の仕事になります。

ペンキを白に変えてみる。目の前の飛び石――目の前の未来――を白く塗ってみる。

すると、人生の一部が白い色の場所に変わります。


その小さな努力の前には、目の前の飛び石がいま現実に何色だろうと、関係ありません。

実際の色は、関係がない。「ただ、自分は白く塗る」――そういう訓練です。


不安が襲ってきたら、「大丈夫」と。

過去がよみがえってきたら、「ただの妄想(もう反応しない)」と。

怒りを感じたら、「悲の心」を。

関係がこじれたら、「善き方向性」を。


まずは、自分が正しい色を塗ろうと努めること。そこだけが、大事なポイントです。

「でも、私が持っているペンキは、いつも黒いままです」という人もいるでしょう。でも、そんなことはありません。

このペンキは面白いもので、「白くしよう」と願いつづけることで、白くなる性質を持っています。

ちょっと迷えば、ちょっと動揺すれば、たしかに簡単に色は暗く変わります。だけれど、それは永久の色ではありません。

白い色を想い浮かべるだけでいい。そしたら、面白いことに、色も変わっていきます。


飛び石――目の前の現実――が何色かは、問題ではない。

自分が塗ろうとする色こそが、問題である。


心がけひとつで、ペンキの色はきっと変わっていきます。

最後は、過去にどんな色がついていた道すじでも、新しい色に塗り替えることが可能になります。

現実に支配されずに、あえて明るい色を塗りつけてみせられる心の強さを持てるように。

いつの間にか、秋の入り口です。


精進してまいりましょう。




全国行脚 あとは静岡を残すのみ


こんにちは、草薙龍瞬でございます。

この夏の全国行脚も、いよいよ大詰め。9月10日・11日の静岡(※SBS学苑静岡と浜松。11日は三島のお寺で中高生&ご両親向けの法話会)で、今年の全国行脚は終了です。
 
9月10日(日) 
10:00 ~ 11:30 浜松 ストレスにさよなら!仏教式「心の上手な使いかた」 
SBS学苑・遠鉄校 浜松市中区旭町12-1 遠鉄百貨店 新館8F 
TEL:053-455-2230
 
13:30 ~ 15:00 静岡 
ストレスにさよなら!仏教式「心の上手な使いかた」 
SBS学苑・パルシェ校 静岡市葵区黒金町49 静岡駅ビル・パルシェ7F 
TEL:054-253-1221
 
9月11日(月) 10:00 ~ 11:30
静岡 草薙龍瞬の寺子屋「中高生の勉強ライフを考える」 三島・成真寺 - 成真寺 〒411-0853 静岡県三島市大社町7−56


ここまでお世話いただいた方々・出会って下さった方々、まことにありがとうございました。
(おかげさまで(?)野宿は2回のみ(笑))

仏教関連のご質問、帰京次第、ふたたびお答えしていきたいと思っております。

考えてみれば、今年はあと4か月のみ。で、書かねばならぬ本が(企画上は)3冊(^□^;)――。

いつも作業に追われつつ、気にかかっているのは、仏教を学ばれているみなさまのことでございます。

みなそれぞれに、課題・試練を抱えています。でも、私が今ご縁いただいている方々は、気丈に、前向きに頑張っている方々だと受け止めております。


ひとの心は、見る方角によって、見えるものはまったく違ってきます。

暗い妄想のほうを見てしまえば――あるいは、インターネットをはじめとする、きわめて現代的な暗い悪意や妄想にお付き合いしてしまえば――、

自分自身の心が、暗く塗り固められてしまいます。

しかし、明るい方向――希望、信頼、友情、善意、そして自分自身の心の苦悩・曇りからの解放――をしっかり見すえれば、

心はそれだけで明るくなれます。


心が光を見るのか、闇を見るのか。

それは、自分自身が決めることです。ほかの誰も決めることはできません。

ただ、ほかならぬ自分自身が、ときに弱く、ときに暗く染まり、ときに曇ってしまうもの。

しかし、そうした心の気まぐれ・心の魔に負けてはいけないのです。


しっかりと、光の方角を見すえること。

世の中は捨てたものではない。人間は捨てたものではない。

自分の人生は、生きているかぎり、明るい光――苦しみからの解放という可能性――を見ることはできる。

そう信じることです。そう思い出すこと――。


ときに揺れ動いてもよいから、しっかりと自分にとって最善の、「間違いなく正しいはずだ」と思える明るい方角を、見すえること。

つねにつねに思い出そうと努めることです。その努力が、「道」の最初になります。

精進してまいりましょう。




全国行脚御礼


こんにちは、草薙龍瞬です。

猛暑?冷夏?大雨?――
よくわからない天候が全国で続いているような気もいたしますが、いかがおすごしでしょうか?

8月26日
●今、一時的に東京に戻ってきています(明日から再び行脚です)。

今年の全国行脚も、たくさんの人々と風景に出会うことになりました。

楽しく、充実のひとときもあり、せつなく、哀しみを感じる時間もあり――。

濃密すぎる時間がすぎていきます。今、旅の記録をまとめていますが、言語化しきれぬことのほうが圧倒的に多く。

そして、一生私だけの胸に留めておくであろう、心の闇や、悲しみや、痛みというのもあります。

仏教は、執着を手放すことを是としますが、私はあえて「胸に留める」ことに最近努めていることが多い気がします。手放すことが愛情になることももちろんありますが、あえて留めることにこそ、そのひとへの愛情・友情があるような気がする場合があるのです。




●全国行脚、まだまだ続きます。

ここまで、場所をご用意してくださった全国の方々、本当にありがとうございました。美しすぎる思い出の数々です。いまだ消化しきれていない思いでおります。


その一方、どの場所にも苦労を抱えている方は、たくさんいると思うので――そうした方々との出会いの機会を、今後も増やしていっていただければと思います。


やがてこの身は、無へと帰ることでしょう。ならば、せめてひとが幸福になる可能性を信じて、活動をさまざまにやっていくことのほうが、客観的にみれば、この世界になんらかのプラスの可能性をもたらせるように思います



次の本も、誰かの幸せに役に立てるようにという動機と、自分の手で一字一句、という前提は微動だにせず、言葉を紡いでいます。かなり時間をかけてしまっておりますが……。


みなさんがよき日々をすごしてくださいますように。


そして、まだ見知らぬ方々が、苦悩を抜けるきっかけをやがて見出してくださいますように。


草薙龍瞬御礼合掌

次は愛知、大阪、山形、静岡です。




全国行脚いよいよ北上!【8月日程&旅の記録つき】

7月28日
こんにちは、草薙龍瞬です。

暑いですね、という挨拶が定番ですが、私はほとんど反応しないようにしているので、暑さはあんまり感じません。

でも、あんまりよく眠れないので(冷房もないし)、心は疲れてないけど、体は夏バテ気味?というヘンな感じです(笑)。

インドのラケシュから連絡があって、今年から中学校がスタート(日本とは若干制度が違いますが)。学校運営も順調なようです。

今年1月に生まれたラケシュの男の子の名前は、なんと「リュウシュン」! 責任感じております……(笑)。


●全国行脚は、大阪編が終了して、いよいよ7月30日から北上します。日程お確かめの上、お近くの方はぜひお寄りください。

追加訪問先も、ひきつづき募集中です。お気軽にお声かけ下さい。勉強会・法話会、大歓迎です。

日 7月 30日
14:30 ~ 16:00
立川・法話会「風通しのよい暮らし方~ブッダに学ぶ心をラクにするヒント(お茶付) -
天王橋会館(1F学習室) 立川市一番町3-6-1 最寄り駅:西武新宿線 武蔵砂川駅より車で5分

月 7月 31日
午前 仙台・お茶会(希望者には個別にお知らせします)
午後盛岡入り ジュンク堂訪問

水 8月 2日
10:00 ~ 12:00
青森五所川原・法話会 - 隠れ家カフェカシェット http://cachettek.sblo.jp/

土 8月 5日
午後 新潟入り 良寛記念館訪問
日 8月 6日
13:00 ~ 15:00
新潟 「これでいいと納得できる人生のつくりかた」法話会 - 新潟市・クロスパル新潟 306講座室

金 8月 11日
13:00 ~ 15:30
愛媛今治「法話会・ブッダに学ぶ人間関係をラクにするヒント」 - しまなみアースランド学習棟:レクチャールーム

土 8月 12日
愛媛松山入り
月 8月 14日
13:30 ~ 16:00
愛媛宇和島「往生について~ひとの死・自分の死の迎え方」 宇和島市立 吉田中央公民館 第1会議室 愛媛県宇和島市吉田町西小路7

木 8月17日
10:00 ~ 11:30
福岡勉強会「こころのバランスの取り方」 - ジャパンマック(依存症リハビリセンター)http://japanmac.or.jp/jmacfukuoka/1001-sisetsu-shokai.html

日 8月 27日
13:00 ~ 15:00
愛知豊橋・お茶会 正しさにこだわらない~「心の使い方」

月 8月 28日
17:30 ~ 20:30
大阪朝日カルチャー『生き方としての仏教』~悩みが消えるブッダの超合理的考え方 - 朝日カルチャー中之島

火 8月 29日
10:30 ~ 12:00
名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 その5・人生の苦悩を「さとり」で越える - 〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F  中日文化センター

19:00 ~ 21:00
講演「ストレスを癒すカギは『心の上手な使い方』 『反応しない練習』を実体験!」
関西生産性本部 - 大阪工業大学梅田キャンパス  大阪府大阪市北区茶屋町50番
★要手続 http://www.sentanjuku.com/kousi2017-1/r-kusanagi.htm
※JR大阪駅徒歩約5分、阪急梅田駅徒歩3分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7月24日(月)

午後、海老名に到着。ファミレスで一仕事。行脚中は各地のファミレスでお世話になることが多い。特にジョナサンは電源を使わせてくれるのでありがたい。その土地に暮らす人たちの様子を見るだけでも、ほんのりと旅情を味わうことができる。

駅でKさんと待ち合わせてセンターへ。十数名の女性たちと高校生の娘さん。小学生から大学院生まで年代が違う子供たちを育てている現役のママさんたち。悩みも十人十色。親を務めることは、実に悩ましい。子供の勘違い・思い込みから始まる悩みもあれば、親の妄想しすぎ・業の影響で始まるもつれもある。

人間関係の基本としては、とにかく判断・妄想・抑圧・怒りなどをぶつけるのではなく、「よく理解する」ところから入るしかない。

ある女性は「風水にてらして」散らかしっぱなしの子供に怒ってしまう。しかしその風水は親のアタマの中にしかないから妄想(笑)。子供にはなぜ親がキレているのかわからない。ただ恐いからという理由で慌てて片づけるが、それではストレスが溜まる。そのうちいうことを聞かなくなる。あるいは親が恐いから、その場しのぎの嘘をついたり、ズルしたりするようになる。

親の思惑・感情・業をもってぶつかっても、子の心は言うことを聞かなくなるのだ。

もちろん子供の側の甘えや怠惰やずるさや思い込みもありうる。だがそうした部分は、親がコントロールできない、また親には見がたい領域。そこを親が「妄想」し始めると、どんどん親と子の距離は広がってしまう。

向き合う側の作法として何が最も確実かといえば、やはり「理解する」ことに落ち着くだろう。どんなときも、理解することから入ること。裁かず、期待をぶつけず、あれこれ妄想せず、徹底してよく見て、よく聞くことではないか。

心は、理解されれば喜びを感じ、勝手な判断や期待・妄想を向けられれば、不快を感じる。これは真理である。

終了後に、Kさん・Hさん・Nさんと、辻堂から参加してくれたK氏と食事。それぞれに子供に関する悩みを抱えていた。親というのは本当に大変だ。

小田急線で飯田橋へ。日付は変わっていた。


全国行脚2017始動 

7月18日

全国行脚・岸和田編、完遂。いやこれほど充溢の日程をすごせるとは。Nさんほか地元の方々に深く感謝である。車で運んでもらって、JR東岸和田から大阪⇒新大阪⇒名古屋を経て、中日文化センターにて仏教講座。

今日はサティの実践に加えて、八正道のテキストと、般若心経。三重の会員さんが来てくださっていた。

○○病院のOさんら3名。そして昨年夏に猫の死について相談しにきたカップル。「最近は幸せです」と女性。

午後は、相談3件。子の立場、親の立場、両方からの相談。仏教にめぐりあって過去の苦悩を越えた人の、「私が仏教にたどり着くまで」のライフストーリー。いろんな仏教書をみせてくれる。よく勉強されている。

私の過去の本につき「内容とタイトルが全然違う」という。あの本のことね(笑)。同感でございます。十善戒の部分をコピーして冷蔵庫に貼って、日々実践を心がけているそう。頭が下がります。

どの世界もそうだが、受け取る側が熱心誠実なのに、差し出す側はそうではないというのは、よくある話。この命はそうはあってはならない。

みずからの立場・役割を百パーセントきっちり果たすことである。自分で語る。自分で書く。自分で動く。全身全霊で瞬間瞬間を生きる。その覚悟にしっかり立ち切らねばならぬ。

ひとは、苦しみ続けるために生きているのではない。生まれた時に苦をすでに抱えていたわけでもない。

いっさいの苦は、この世界に生まれて以来、生きていく過程で背負ってきたもので、どんな苦しみも最初に存在したものはない。

となれば、生きているこの人生のなかで、苦しみをすべて降ろすことは可能である。心にはそもそも苦しみなどなかったのだから、その状態・境地に帰ることだ。

つまりは、苦しみの荷物を降ろし、もう一度、軽くて自由で解放された、本来の、天然の、自然[じねん]の心のあり方に、帰ることである。帰ってよいのである。

ただひとは、みずからの心を観るという発想も、そのすべも知らない。その意味で、無知なる生き物である。

親も、子も、すべての人間が、心をもって生きながら、その心を見つめて、心の苦しみを抜ける方法を知らない。

だから、過去の苦しみを抱えて、新たな苦しみを作り出し、どこまでも、重く、霧は晴れず、視界・見通しの悪すぎる道を、とぼとぼと「こっちでいいのかな、たぶんいいのだろう」という程度の手応えで歩いていく。やがてゆきづまる人も出てくる。その道のりを、無明の闇路と呼ぶことは可能である。

だが人間は、「正しい理解」という智慧の光――つまりは明瞭な方法――を持つことで、苦しみの霧の中を生きるのではなく、苦しみの霧を抜けることを、人生の目的にすることができる。

人生の重たく無駄な荷物を降ろして、身軽で解放された快適な心の状態で生きることを、めざすことができる。


人生に苦しみを伴うことは、事実かもしれないが、

人生の苦しみは、この人生のうちにすべて降ろしうることも、まぎれなき真実である。



その真実にめざめて、今いるその場所で、真摯に、誠実に、熱心に、心の苦を降ろして、解放されることをめざすことだ。
そうした生き方こそが、正しい生き方だ。苦を抜けることをめざして、その方法を心がけることこそが、生きることの意味である。

がんばれ、がんばれ、がんばれ、である。これはすべての人々への、そして己自身への呼びかけである。この世に生きる命はみな、しっかりと間違いなく正しいといえる方角をみすえ、思い出して、その道を歩いていくことだ。そうした人生であるならば、どこで旅立ちを迎えようとも、正しい道のりの途中にある。

正しい道のりの途中にあるという事実こそが、人生最高の意味であり、最高の納得、「よし」と思ってよい理由になる。そう思えた時、ひとは人生を成就している。


――そんな感慨を抱きつつ、明日の講座のために新幹線で東京に向かう。この時間帯は、仕事に疲れてシートに沈み込むスーツ姿の人たちが多い。車窓の外には、夜の帳に明滅する人家の明かりが見える。

あまりに忙しく駆け回った行脚最初の旅だったが、印象的だったのは、どこを訪れても、ひとのすまう家並があることだ。
 
その数だけ、私が見知らぬ人生がある――と思うと、せつなくなる。きっとあの家の一軒一軒のなかに、この命が一生出会うことのない、幸せも苦悩もあるであろう。あたかも、けしてつながることのない、遠い彼方の星々のように。私は、けして手が届かないことを知りながらも、手を延ばす。

これほどにひとさまの苦悩・暮らしのそばに近づき、ひとときをともにすごし、容易には見がたい苦悩の原因を見すえて、そこから抜ける方法を共有し、希望への明るい方角を見出す。

かくも創造的で、苦悩から幸福への一本の道すじを伸ばしている実感が持てる旅というのは、そうそうない。これほどの幸福、充溢、発見、貢献、そして感謝と友情を感じうる旅の形は、稀有である。この命は、幸せである。


電車は宵闇のなかを潜[くぐ]って、東京の街並みへと入っていく。艶[つや]めくビルの明かりが、どこか懐かしい。

行脚の旅は、ようやく始まったばかりである。光を越えるスピードで、日本各地を旅していく。


*訪問地、引き続き募集中です。
*ブログでの公開は、旅の記録の一部です。詳細版は、興道の里メール会員さんに随時配信していきます。全国行脚2017年旅の記録・完全版は、興道の里正規会員さんに後日お送りします。

すべりこんでいく 夜の東京

サイの角はただの○○?【Q&A】『反応しない練習』の「私は私を肯定する」の意味


こんにちは、草薙龍瞬です。

最近、電車の中で見かけた広告にこんなものが――

「残念なおしらせ サイの角は、ただのイボ  『残念などうぶつ図鑑』」

そうだったのか! ということは、「犀の角のようにただ独り歩め」という原始仏典(スッタニパータ)の一節は、「ただのイボみたいにただ独り歩め」ということか!!!(なんだそれ)

「欲望の先にはマイナスがあることを見て、ただのイボのようにただ独り歩め」

「実践すべき道(方法)を得た者は、「もはや他者の言葉に振り回される必要はない」と知って、ただのイボのようにただ独り歩め」

うーむ。説得力激減ではないか。だがそれでも、半ばうならせるだけの説得力が残っているらしいところが、原始仏典のすごいところか。しかし、

「物音に動じない獅子のように、網につかまらない風のように、泥水に汚れない蓮の花のように、ただのイボのように、ただ独り歩め」

こうなると比喩つづきで、ワケがわからない。原始仏典をざんねんな言葉に変えてしまうとは、おそるべし、『ざんねんなどうぶつ図鑑』。


【Q&A】意外?「私は私を肯定する」は、謙虚さの別名

――というのは、余談で(それはそうだ)、今回はこんなご質問をいただきました。


Q せっかく『反応しない練習』と出会えた後も、不安になったり妄想の檻に入ったりしています。謙虚さが足りていないから、妄想好きな自分に執着して自分を変えられないのだと思いました。

 そういう毎日の葛藤の中で、少し混乱してしまったことがあります。反応しない練習の中で「私は私を肯定する」と唱えることが書いてありました。あれは、謙虚でない人が落ち込んだ時も唱えていいことなんでしょうか。それとも「肯定する」ということは「謙虚でない」ということになるのでしょうか」


A ご質問ありがとうございます。これはすべての人にとって、大事なテーマになりえます。

(謙虚さが足りないといえる人というのは、あまり多くありません。敬意を表します。)


「肯定する」というのは、「否定的に判断しない」ということ。つい自分を責めたり、落ち込んだりしてしまう原因である「判断グセ」を止めるための言葉です。

「自分はダメだ」「まだまだだ」「未熟」「失格」「資格なし」――と、ひとは、つい自分のことを判断してしまいます。

そうやって自分にダメ出しすることで、自らの自尊心を傷つけてしまう。落ち込んでしまう。少なくない人が、この自虐グセ・ダメ出しグセを持ってしまっているものですね。

ただ、このクセは、客観的に見ると、三つのマイナスがあります。



ひとつ――「判断」した時点で、雑念・妄想をひとつ増やしてしまっている。

ふたつ――「否定」した時点で、自分の承認欲が満たされないストレス・怒りを作っている。

みっつ――「ダメ出し」そのものは、誰にとってもメリットがない。


みっつめの「メリット」という点は、多少解説が必要かもしれません。

たとえば、誰かが「私はダメなんです」「失格です」と自分にダメ出しをするとしますね。

これは、本人は反省しているように思っているかもしれませんが、客観的に見ると「自分を守っているだけ」ということになります。

相手がいる関係において、「私はダメですね」と表明すると、相手は、「いやそんなことありませんよ」とかばうか、「はい、ダメです」という二者択一の態度表明を迫られることになります。

端的に「あなたをダメにしているのは、こちら側」ということ立場に立たされます。相手が悪者になってしまうのです。

仕事上の関係なら、「そんなことを言っているんじゃないのに。ちゃんとやってほしいだけなのに」と相手は思うでしょうし、

親子関係なら、「そんなことを言っているんじゃない。お母さん(お父さん)は、そうやってすぐ自分をかばって、私を悪者にする」と、(言語化できるかどうかは別として)内心思わされてしまいます(これが、子供の心を傷つけます)。


なので、人間関係において「私はダメなんだ」という自己否定は、基本的に、何ももたらしません。自分をかばって、相手を困らせてしまうだけ――特に、子をもつ親は、要注意です。


●さて、本題に戻りますが、「肯定する」というのは、「判断しない」ということ。ただ現実の自分を「理解する」ということです。

判断するのと、理解するのは、違います。理解するというのは、積極的に価値を見出すのでも、価値を否定することでもありません。


今現時点での自分を、ありのままに理解している。承知しているということ。


仮に「未熟」「失敗」といえるような自分であっても、まずは「そんな自分であることを理解します」ということなのです。


①理解する。理解する。理解する。そして、

②判断しない。判断を消す。妄想を消す。


実際には、①の「理解する」というところには、なかなか立ちにくいもの。

大抵の場合は、自分を否定するクセがついてしまっているので、その否定グセにストップをかけるために「わたしはわたしを肯定する」と唱えるのです。それでOKです。


まず避けるべきなのは、「自分はダメなんだ」と自己否定する負のスパイラルに歯止めをかけることです。

この自己否定のスパイラルは、何も生み出さない。自分を落ち込ませるだけだし、相手がいる関係なら、相手を困らせてしまいます。

とにかく、否定グセが出そうになったら、「わたしはわたしを肯定する」と何度も唱えて、その思考に歯止めをかけるのです。『反応しない練習』でお伝えしたのは、まさにこのこと。これは、心が沈んで行かないための防波堤になります。


●「肯定する」とは「判断しない」ということ。その先に何があるかといえば、「つつしみ(謙虚さ)」です。

「判断」というのは、それが「自分は正しい」という思いであれ、「自分はダメだ」という否定であれ、「慢」に当たります。

「自分は正しい」というのは、承認欲が作り出す判断。自分がエライとか、いいかっこしようとか。プライドも、見栄も、比べっこも、承認欲をエネルギー源とする判断です。

他方、「自分はダメだ」というのも、承認欲をエネルギー源とする判断であることに違いありません。この自己否定が「困る」のは、一度自分を否定して、みずからストレスを作り出しておいて、いざ「やり返せる」ときにやり返そうとしてしまうことです。

どうだ、見たか。ほら、私のほうが正しかった。あのときのことを謝ってください――といった仕返しとなって、後で出てきます。

これも、親子関係にはけっこう多いこと。子供が言うことを聞かない(子にはそれなりの言い分があるのに、親は聞いていない)。で、子供がいざ不利に立たされた時に(受験がヤバいとか)、ホラだから言ったでしょ、親に謝りなさい、といった形で「復讐する」ことが、しばしばあります。


つまりは、自分を否定する判断は、状況変われば、すぐに相手への「慢」に変わってしまうということ。

自分を過剰に肯定するのも、否定するのも、「承認欲が作り出す判断」という点では同じです。それは「慢」。

「慢」は、危なっかしいのです。自分を否定するか、関わる相手を否定するか。

自分も相手も肯定できるかも? それはありません(笑)。それができるのは、「慢」という判断ではなく、「理解」であり「慈悲」であり「つつしみ」です。


●なぜ仏教が「判断するのはおやめなさい」と説くかと言えば、「よく理解できるようにするため」です。

慢はいらない。自己否定もいらない。あれやこれやと、自分の思いや考えの正しさを裏付けようと、次々に妄想を重ねることもいらない。

なぜいらないかといえば、それは「理解」を遠ざけるからです。


あれこれ考えることより大事なのは、

自分の慢や、余計な判断グセや、自己満足に走ってしまう心のクセを「理解する」こと。

相手の思いや、立場や、こちらに求めていることを「理解する」こと。


人と人との関係性は、「理解する」ことが基本だし、それに尽きます。

ところが、人間は、さまざまな判断と、慢と、妄想グセがあるものだから、自分のことも、相手のことも、正しく、クリアに理解することができません。

理解できないみずからの心の状態。あるいは、理解することを拒む・おそれる心のクセ。

そこに囚われてしまうのです。


理解を拒むことで、何を守ろうとしているか――それは、「今の自分」です。ありのままの自分を理解すること、相手が求めていることを理解することは、自分が否定されてしまうようで恐いのです。

しかし、「自分が否定される」という思いこそは、「今の自分はイケている・正しい」と思いたい慢や妄想がつくりだしているもの。「恐い」というのも、「自分はもっといい人間」という妄想を壊されてしまうのが、恐いだけかもしれないのです。


ひとは、多かれ少なかれ自分に妄想を抱くことで、承認欲を満たしているもの。

ただ、それは別名「妄想の檻」でもあります。「仮想の自分」というイメージに必死でしがみついている状態かもしれません。

ただその状態だと、「壊される」ことに恐怖を感じます。となると、相手が伝えようとしていることにも過剰反応してしまって、ヘコんだり、自己弁護に走ったり、自分を悪者に仕立てたり(それは結局相手を悪者にしてしまうことなのですが)、というループにはまりこんでしまいます。

そして、関係がうまく行かなくなり、自分の中では自己嫌悪が募り、という悪循環におちいります。

そうなると、変われません。関係も変わらない。哀しいかな、ひとは、この「妄想の檻を壊されることを極度に恐れる」ループの中に閉じ込められてしまうことが、ままあるのです。


●この残念な輪廻から抜け出すための意外な方法――それが「謙虚になる」ことなのです。

謙虚になるというのは、自分自身を妄想しないということ。自分を正しいとかダメだとか、上とか下とか、資格があるとかないとか、いっさい判断しない。

人間なんて、あやまちは犯すし、未熟なものだし、性格も、行動範囲も、限定されたものです。小さな生き物です。

特に、ひととひととの関係というのは、互いに見ているものも、考え方も違うのだから、関わればかならずといっていいほど「穴」が生じます。

その穴――失敗・理解の食い違い――に、わざわざ承認欲で反応して、判断グセで判断して、あれこれと妄想し始めるから、ややこしくなってしまいます。


「穴」を解消しようと思えば、自身の妄想グセ・判断グセに、まず気づくこと。


相手の言葉・思いを正しく理解して、その相手の思いを「前提にして」、関係をもう一度作り直してみせることです。それで解決。

大人同士の関係であれ、親子関係であれ、これは真理です。


関係をややこしくしているのは、なぜなのか。たいていは、自分の妄想グセ・判断グセがあります。

しかし重ねて理解したいことは、すべての人間は、そんな妄想や判断を押し通していいほど、偉くないということです(笑)。

今の自分にこだわって、変わることを恐れて、理解することを怖がって、「私はやっぱりダメ」とか、逆に「私はこれでいい(開き直り)とか、

そういう承認欲にもとづく判断の檻、「私、私、私」という自意識の檻――に閉じこもるほどのことは、何もないのです。

そういう不毛な思い込み、自分への執着を、いさぎよく捨てられること。それが謙虚さです。



●だから、仏教の世界では「つつしみを念じる」ということを、練習=修行としてよくやります。

「行い、言葉、思いの三つで犯したあやまちがあります。私は、そのあやまちを懺悔いたします」という言葉です。

「懺悔」は、「ダメ出し」「反省」というのとは違います。「謙虚に、妄想もなく、判断もなく、しっかりと理解します」という意味です。

それは「理解して、前に進みます。私は変わること・成長することを恐れません」ということでもあります。

「理解する」という立場に立つ――そのとき、すべてはリセットです。恐れては、いけない。


その理解を相手に伝える勇気、誠実さを持てること――それも謙虚さの一つです。親ならば、子への本当の愛情ということになります。

相手が、慈悲や、友情や、プロ意識を持った人なら、あなたが伝える「理解」を受け止めることでしょう。子供なら、「わかってくれたんだ」と素直に喜ぶはず。


本来、人間関係は、なにひとつ問題はないはずなのです。

邪魔しているものは何なのか。難しくしているものは、何なのか。それは自分の中にあります。


自分はいったい何を恐れ、何を拒んでいるのか。よくよく考えてみたいものです。


「謙虚になる」ことと、「わたしはわたしを肯定する」は、最終的には同じです。

「理解」という心に道を開くための、出発点となる心がけです。


(興道の里会員へのメール通信より)

草薙龍瞬・夏の全国行脚、いざスタート!!

今年もやります、日本全国行脚♪

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、今年も夏の全国行脚をスタートします!

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講演・勉強会・座禅会など)
○法事をやってほしい
○個人的に相談・聞きたいことがある


などなど、お気軽にご応募ください。場所は問いません!

…………………………

●応募方法

①ご登録

・お名前
・住所
・連絡先 
(電話番号 ※携帯が望ましい。興道の里会員は、お名前のみでOK)
訪問希望日
 (※地域ごとに訪問期間を設定しました。下のスケジュール表を見て、希望日をメールで連絡下さい)

ご応募期間は、全国行脚終了(9月7日)まで。いつでもご連絡下さい(先約優先いたします)。

  ↓

②「場所」を見つける。

※一般向けの講座・勉強会をお世話して下さる方、大歓迎です。公共施設・ご自宅・喫茶店などでもOK。
※内容・タイトルなどは、下記の例をご参考ください。興道の里にもご相談いただけます。
※できる範囲で告知いただければ、幸いです。おひとりでもOKですので、お気軽に。

​●その他


※講座・勉強会などは、参加費無料でかまいません。地元の方が来やすい形をご検討ください。

※車などでの移動の便宜、お宿のご提供なども助けとなりますので、ご無理のない範囲でご協力いただければ幸いです。

※少人数あるいはおひとりでのご連絡も、よろこんで承ります。旅の途中にふらり寄るという感じで足を運びますので、お気軽にご連絡下さい。
 
…………………………

勉強会・講演などの一例 ​(転用可)

◎勉強会&お茶会 真夏の夜に学ぶ「心やすらぐ」原始仏教(喫茶店にて)


「人生はやすらぎへの準備期間」を基本テーマにして、原始仏教のこと、日々の暮らし方のことを参加者とみなさんと語り合う癒しのひととき。お気軽に足をお運びください。

◎法話会「風通しのよい暮らし方~ブッダに学ぶ心をラクにするヒント

◎講演「悩みの原因はただひとつ それは心の反応」(看護学校)

 どんな職場でも、一番の悩みは人間関係。解決の第一歩は、「ココロのルール」を決めること。2500年の歴史を持つ仏教心理学を、スライドを使ってわかりやすく解説。職場で実践すれば、はたらきやすい環境に変わるかも?

◎座禅会「座禅エクササイズと仏教こばなし」(カルチャー)

 ブッダの教えが、現代を生きる私たちの心に沁みこんで、効いていく。●『反応しない練習』の著者・草薙龍瞬が名古屋に登場。「これでいいと納得できる人生のつくりかた」「葬儀・法事の正しいありかた」「不安やストレスをためない、上手な心の使い方」「毎日気軽にできる座禅のやりかた」など、みんなが知りたかった「仏教のすべて」を、聞いて楽しい軽快な語り口でお話します。●幸せが近づく仏教読み物のおまけつき。仏教の智慧を楽しく学んで、今よりもっと快適な生活づくりを始めましょう。

【詳細】◆「快適暮らし」にはコツがある ~心をスッキリさせる仏教的「考え方」入門 ◆お寺の話・葬儀の話 ~先立たれてもなお一緒に生きていく「心のつながり方」 ◆ムダに反応しない練習 ~不安やストレスを洗い流す「自宅でできるプチ座禅」

◎仏教は「上手な生き方&心の使い方」

 心に悩みがなく、幸せに生きる――その方法が「仏教」には詰まっています。講座では、仏教を「心の上手な使いかた」という視点でとらえなおし、今の暮らしの中で幸福をつかむコツを学びます。ブッダが悟りを開いた瞑想法と、仏教の考え方を学ぶミニ講座をあわせて体験。「霧が晴れるように」生き方のヒントが見えてくることでしょう。

などなど。

●個人相談も承っております。①お名前、②携帯番号(臨時連絡先)、③ご希望の場所(○○駅の喫茶店・自宅など/こちらで手配も可能です)、④相談内容(簡単にお知らせください) 

…………………………
 
全国行脚スケジュール案 ​

※期間ごとに訪問地域をまとめましたので、その期間内でまずはご検討ください。

●7月11日~18日 近畿地方

 
7月 11日・12日・13日夜 大阪・個人相談

7月11日14:30 ~ 16:00
岸和田講演「心のお通じ」に抜群の効果!仏教式・お悩みスッキリ解消術 岸和田健老大学 〒596-0076 大阪府岸和田市野田町1丁目12−7 電話: 072-431-1575

7月12日 19:00 ~ 21:00        
NewsPicksアカデミア大阪 実践・仏教式メンタルヘルス - 本町・カーニープレイス館4F 〒550-0011 大阪市西区阿波座1丁目6-13 カーニープレイス本町ビ

7月 15日夜 経営者・組織リーダー対象セミナー 大阪【会員制・株式会社フラクル主催】

7月 16日 16:00~  心の出家をめざす会(自由参加の勉強会)岸和田

7月 18日 10:30 ~ 12:00        
名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」
〒460-0008 名古屋市中区栄4丁目1番1号 中日ビル4F  中日文化センター


●7月20日~30日 関東

7月 20日 14:00 ~ 16:00        
駒込・仏教を学ぶ~草薙龍瞬と「仏教のすべて」をたどる講座 - 駒込地域文化創造館

7月25日 18:00 ~ 20:30        
座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館 和室

7月 30日・31日 西東京(八王子他)


●7月31日~8月10日 東北・北陸・北海道 ※新潟・富山調整中です

●8月11日~16日 四国

8月14日 愛媛・宇和島

●8月17日~22日 九州・沖縄

● 8月 23日~ 関東

●8月27日~9月7日 全国どこでも


8月 28日 17:30 ~ 20:30        
大阪朝日カルチャー『生き方としての仏教』~悩みが消えるブッダの超合理的考え方 - 朝日カルチャー中之島

8月 29日 
10:30 ~ 12:00  名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 中日文化センター
18:00 ~ 20:00   関西生産性本部講演【非公開】

9月 10日 10:00 ~ 11:30/13:30~15:00          
静岡 ストレスにさよなら!仏教式「心の上手な使いかた」
SBS 学苑 遠鉄校 静岡県浜松市中区旭町12−1 /SBS 学苑 パルシェ校 静岡県浜松市中区旭町12−1


――その他、ご相談・お問い合わせは、メールでお寄せ下さい。随時返信いたします。 koudounosato@gmail.com
 

PHPくらしラク~る♪に連載中『ブッダと始める しあわせの作りかた』文・絵 草薙龍瞬 ※9月号=8月10日掲載予定のイラスト。最終版と本文は本誌にて。




陽光盛(さか)る季節(神楽坂仏教講座スタート)


こんにちは、草薙龍瞬です。

◎今日の午後、たまたま小学1年の下校場面に遭遇しました(都内の超名門女子小学校?)。

新品のランドセルを背負って、先生に引率されて、ポカポカ陽気の中を歩いていました。 

まさにピカピカの一年生です。

新入社員も、よく見かけます。やはり表情が若々しい(笑)。まっさらの未来があるというのは、よいものです。

でも、心を磨き、妄想――記憶も判断も予測も――を捨てれば、何歳であっても、心はピカピカになれます。これは、ほんとです。

この春は、何も考えずに、ただ歩き、ただ見つめる、ということに挑戦してみてくださいね。


いよいよ、陽光盛(さか)る季節です。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・

◎4月30日より、神楽坂での仏教講座がスタートします。

4月30日 午前10時から 仏教入門「悩みを溜めない心の使い方」
初めての方&仏教を学びたての方向け。

昨年途中から神楽坂に通い始めた人も、参加可能です。お時間合いましたらどうぞ。


●5月3日から通常講座です。

*仏教講座のほうは、昨年終われなかった「正しい理解」PART3の教材(新たに配布)と、新規の方向けの「道」の両方をやります。新資料も配布。

*昨年の資料「仏教のエッセンス 道」を持っている方は、ご持参ください。

*日曜夜にシリーズで開催される 「坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座」 は、1時間の瞑想と、40分ほどの講義を合わせて行います。教材は、毎月の仏教雨講座と同じです(5月は「正しい理解」と「道」)。

昨年来ていた方も、今年が初めての方も、新しいことが学べる内容です。ご都合よいときに、いらしてください。

5月 3日(水祝) 
18:00~20:30 生き方としての仏教講座 

5月 4日(木祝) 
10:00~12:00  座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座 

5月 5日(金祝)
13:00 ~ 15:30 人間関係特集「夫婦・子育て・職場で苦労しないコツ」
18:00 ~ 20:30 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき

5月 6日(土)
18:00 ~ 20:30 生き方としての仏教講座 

5月 7日(日)
10:00 ~ 12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき
18:00 ~ 20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座(※GW中の他の回と配布資料は同じです(「正しい理解」PART3と「道」)。

5月 11日(木)
14:00 ~ 16:00 巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 

5月 12日(金)
18:30 ~ 20:30 朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第2回(単回受講可)

5月 13日(土)
10:00 ~ 12:00 東武カルチュア 仏教は「上手な生き方&心の使い方」 - 東武カルチュア 池袋校

5月 14日(日)
18:00 ~ 20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂

5月 16日(火)
10:30 ~ 12:00 名古屋「仏教は暮らしに役立つ「心の使いかた」 その2人間関係は「4つの心がけ」で始めよう

5月 17日(水)
10:30 ~ 12:00 東急BE二子玉川 仏教で幸せな心を育てよう~仏教講座と禅瞑想
13:30 ~ 15:00 東急BEたまプラーザ 仏教で幸せな心を育てよう~仏教講座と禅瞑想

サラの春


昼下がりに、脱力ものの光景を見た。

事務所近くの公園で、白い躰のサラを見かけた。その目の前には、小さなネズミがチョロチョロと動き回っていた。

どうも不器用なネズミらしく、道から公園への段差を上がれない。逃げようと必死なのか、右に駆けたり左に走ったりと慌ただしい。その様子を、興味津津の体(てい)でサラが見つめている。

眺めているサラも呑気なものなら、ネズミの動きも妙に間が抜けている。巨体の猫がすぐ背後にいるというのに、片方の段差を越えられないと知るや、サラのほうに近づき、サラを通り過ぎ、逆方向の段差をまた試してみる、という無防備なことを繰り返している。

私に気づいたサラが、こっちを見やりながらニャアという。その合間にネズミが再び方向転換して、なんとサラの四肢の間を通り抜けた。

すると、サラは「キャッ!」という風体でその場でぴょんと飛び上がった。おいおい、君はネズミに触られてビビる猫なのかい……。

その後もネズミの様子を、サラは右へ左へと追いかける。そばまで寄って白い手を伸ばそうとする。ネズミも呑気なもので、サラを恐がっているのか、相手にしていないのか、サラの至近距離で右往左往している。サラのフトコロを通り抜けることを、まるで躊躇しないのである。

サラが私のほうを見ている間に、ネズミは公園の段差の下をつたって、駆けていってしまった。ほんの数秒サラが視線を離したスキに、いなくなったのである。

その後のサラの驚きようと淋しがりようといったら――ニャァオ。ニャァオ。とはっきり区切りをつけて鳴き続けた。「戻ってきてよ、どこ行ったのよ」と訴えているらしい。

いや、けして俊敏な動きのネズミではなかった。追いかけようと思えば簡単にできたはず。ひとえにキミの悠揚さが、喪失の理由である。

しかし、ネズミのおもちゃ相手なら、野生本能むき出しに飛びかかって、バキバキと噛み尽くすのに、本物のネズミを見てびっくりするとは……まあ、私と縁ある猫なくらいだから、そんなものなのか。殺生しない猫である。偉いものだ。慈悲の実践だ。

そんな出会いがあるからなのか、サラは最近は公園で一日中遊んでいる。昼も夜も、ほとんど事務所には帰ってこない。休みたいときに帰ってきてクウクウ寝るか、食べたいときに帰ってきてカリカリ食べるか。

で、用事がすんだら速攻で外に遊びに行く。なんだか私は、都合のいい愛人みたいな?ものであろうか。

私も夜に公園に出かけることがある。チョッチョッと舌を鳴らすと、やぶの中からニャアと顔を出してくる。

広い場所でネズミのおもちゃを振り回すと、持ち前の運動能力を発揮して、ダイナミックに宙返りして捕獲する。

最近はすべり台も覚えた。ツルツルはあまり好きじゃないらしいが、ネズミのおもちゃを滑り台の上でチョロチョロ動かすと、砂地から駆けあがって口にくわえる。そのまま四足で踏ん張りながら、するする滑り落ちていく。

さらにネズミのおもちゃで誘惑して、すべり台の階段を上がらせる。ネズミのおもちゃを垂らすと、滑るのがイヤなサラは、うらめしそうに上から眺めている。

それでもちょんちょんと動かすと、捕獲本能にスイッチが入って、すべり台に踏み込んでしまう。で、そのままお尻を上に向けたまま、また哀しげに滑り落ちていく。その様子をみて、私はハハハと笑う。

近所の人たちが犬を連れてやってくる。サラに興味を持って近づいてくる犬もいる。サラはビビッてこんもりとしたコンクリ山の上に駆けあがって、フゥ~と威嚇してみせる。

公園には、犬も、見知らぬ人たちも出入りする。サラはビクビクしながら、私についてくる。幼い子が母親を安心のよりどころにするように、サラにとっても、私が安全の目印になっているらしい。愛らしいものである。

ネズミのおもちゃで遊んでいたら、サラの動きが突然止まった。何かなと思ったら、灌木の中を近づいてくる物体が。モンタ君(ハクビシン)だった。

神楽坂は、ハクビシンが意外と多いそうである。サラは唸るでも、毛を逆立てるでもなく、モンタ君をじっと見つめている。モンタ君のほうは、「ううう」とうなって見せる。そして走って逃げていくのだが、ご執心のサラはそのうしろを追いかけていく。途中であきらめて、またニャァオ!(戻ってきてよ)と鳴く。

サラにとっては、ネズミもハクビシンも、お友だち候補の様子である。こんな遭遇が楽しいから、サラは、昼間でも公園の灌木の中でじっとしていたりするのであろう。

いろんな出会いの中で、それなりに楽しんでいるらしいサラの春である。
 
 
すべり台の下でネズミを待ち構えるサラ。でも本物にはビビる。

サラの帰還(写真のみ)

久々に外で遊んで戻ってきたサラちゃん
よく帰ってきてくれました
いつの間にかモフモフボックスに棲みついていたモンタ君

もうすぐ春


こんにちは、草薙龍瞬です。

日射しが急速に春に近づいた気がします。市ヶ谷の御濠の桜も、鮮やかな紅の色を発していました。

神楽坂の講座は、5月から。4月からは各地のカルチャーでの講座が再開します。


○草薙龍瞬と興道の里の活動は、つねに最善の方向性――

この世界に、

幸福や、
心の痛みの軽減や、
相互への信頼など、

プラスの価値を創造すること――に向けられています(かなりベタな表現ですが(笑))。

その方向性を見すえて、仏教というひとつのツール(手段)を、


特定の立場に偏った「宗教」ではなく、

どこまでもオープンで共有可能な「方法」として、伝えていくこと。

そこに、私の活動の生命線があると心得ています。


○今の時代は、人間の心を暗い方向へと引きずり込もうとする、


曲解や悪意に満ちた言葉や、
虚偽の情報や、
悲観と猜疑を刺激するだけの事件・話題が、

溢れています。

しかし、そうした言葉がいくら広がっても、人類、社会、一人ひとりの生活や心が、いい方向に進むことはありません。

少なくとも、私自身の言葉は、そうした時流に巻き込まれないように、しっかり「純度」を守っていかねば、と思っています。

本の言葉も、一言一句、自分の言葉で。

メディアに掲載していただく言葉も、どれも私自身の、誰かに向けての励ましと善意を込めた言葉です。

この道を見出すまで、40年以上かかっています。なんども絶望しています(笑)。

その果てに紡ぎ出された真実の言葉だと思って、ぜひ受け止めてください。

 
○この世界に生きている誰かが、よき方向性を心に取り戻し、自分を立て直す「道」を、見つけられるように。

そのために、私は、本や講座を通して、真実であり役に立つ、と自ら確信できる言葉だけを、世俗に染まらぬ出家の立場で、徹底的に洗練させて、送り出していきます。




その、細く、小さな道を、しっかり先に延ばしていきたいと思います。



これを、共有可能な言葉におきかえるなら、

「いい人生を生きたいと願うなら、善き動機に立って、一日一日を地道に生きるしかない」


ということです。





興道の里、活動再開!

こんにちは、草薙龍瞬です。

日本に帰ってきてしばらく経ちましたが、まだ「ジャパンに来たんだなぁ」感がただよっています(笑)。

とてもきれいで、繊細で、お金持ちの国です。ただ、

繊細すぎて不必要に傷つけられたり傷つけたり、

世間を気にして自分らしさを見失ってしまったり、

気苦労を洗い流す時間的余裕や、生活の変化がなくて、よからぬ(不健康な)精神状態を引きずってしまったりと、

どんよりと低調気味に続いている心境も、いろんな場所から伝わってくる感じがします。


「世にあって、世に染まらない」生き方を。

それを実現するには、「今自分にできる、正しいこと」に戻るしかありません。「ダンマに立つ」です。



感覚を感じようとしていますか? 

自分のなかの執着や妄想に気づいていますか? 

ついつい湧いてくる怒りや記憶や妄想にしがみついて、自分から暗い精神状態に落ち込んではいませんか?


「目を醒ます」「心を洗う」ためには、多少の勇気というか、決意がいります。

ラクなほうを選んだら、心は「反応したいよ~」という性質にまかせて、暗い感情と妄想をどんどん作りだします。

ここは毅然と、反応の連鎖を断ち切らねばなりません。「いらないよ」と、宣言してください。
そして、今できること、なすべきこと、自分に有意義なこと、に帰ってください。


●さて、連休最後の3月20日は、日本での活動再開の始めとして、渋谷で、働く母親向けの講演会に出かけてきました。

楽しかったのが、1歳未満の乳幼児がふたり、ママと一緒に参加してくれたことです。

二人とも、すっごくいい子でした。グズらず、上機嫌に、静かに聞いてくれました。

ひとりは、話の後半に、私のほうをじいっと見入って、熱心に聞いてくれていました。目が合うとにっこり笑おうとする。

もうひとりは、最後の記念撮影のときに、ママが私の膝に乗せてくれました。嫌がることもなく、ニュートラルに身をあずけて、一緒に写真をとりました。

赤ちゃんは、肌がプニプニしていて、みずみずしい(笑)。みなさんも抱っこしているときは、まず肌を通して、赤ちゃんと会話をしてください。 カラダでしっかり感じとることです。


大人は、たくさん荷物――業とか、執着とか、妄想とか、雑事にまみれてのイライラ・ストレス・疲労感とか――を、すでに背負ってしまっています。重たすぎる。

その重たい心で、子供に向き合ったら、当然、イライラや「もうなにやってんの!!!」という反応になってしまいます。

でも、その反応は、子供が原因というより、自分が背負ってしまっている荷物ゆえなのです。
「子供に罪はないし、責任もない」というのが、実態だったりします。


また、子供の心は、感覚と感情くらいで、まだ「思考」レベルにまで知能が発達していません。

大人は「思考」をもって、アレコレと考えて、子供の言動を裁いたり、正したりしようとしてしまいがちですが、子供は、それを理解できません。

ただ、そういう(何を考えているのか子供にはわからない)大人の姿を見て、

恐がったり、怯えたり、もうちょっと成長すると反抗したり、

体が大きくなるともっともっと反抗して、逃げて、家に寄りつかなくなったり、親を軽蔑したり……という事態になってきます。

幼い子が「ウソをつくようになった」というのは、親が恐いから、という可能性が高いです。それくらい、大人の怒りを感じとっているということかもしれないのです。


●どうすればいいか?といえば、やっぱり「理解する」という心がけです。

勝手に怒ってないか、判断していないか、自分の都合を前提にして理屈や妄想をふくらませていないか。

「なにを感じているの?」

「なにをしているの?」

「どう思うの?」

「じゃ、これをしようか」


と、理解から入って、同じ立場に立って、「これからこうしよう」と呼びかけるだけで、ほんとはよかったりします。

人間の心というのは、「理解される」ことが、一番うれしいのです。子供にしてみれば、自分のことを怒らず、裁かず、押しつけず、まずは見ていてくれる、わかってくれる、聞いてくれる、と思えること。

そういう思いを持てたら、子供は大人を信用します。理解されると嬉しいから、期待に応えようと頑張ったり、助けてあげようとしたり、いろんなリアクションを返してくれるようになります。

これは、人間なら誰にでも当てはまります。だから、親のみならず、人と人とが関わる時の基本は、

①自分の心を理解し、②相手の心を理解する、ということが基本になるのです。


もし、自分の精神状態がよくないな、と感じていたら、そんな自分の状態を理解してください。そのうえで「何をすれば、気持ちがいいか」を、真面目に思い出してください。

もし、相手が言うことをきいてくれないな、わかりあえていないなと、感じたら、その時点で執着・妄想にストップをかけて、相手の心情をよく理解するように、心がけてください。

裁く、期待する、判断する、要求する、相手の姿に不満を持つ――ほんとは、どれも「執着」でしかありません。

そこを抜けるのは、簡単ではありませんが、でも「いやいや、自分が見えていないんだな」と、冷静に気づくことです。

そして、相手を理解して、うけとめる勇気をもつことです。


●親子関係なら、これから何十年も続くわけですから、先は長い。「相手を理解する」という心がけを基本にすえて、練習を始めることです。

妄想せず、反応せず、判断せず、執着せず、「ただ理解する」という心境を、理解できるようになるには、相当時間がかかるはずです。ほとんどの人は、練習したことがありませんから。

ただ、理解するという心がけを今後深めていくことは、必ずプラスの変化を、自分にも、相手にも、関係にも、もたらします。精進する道に、ソンはありません。頑張りたいものです。


●今後の講座日程

※4月末まで、個人相談・カウセンリングを優先的に受け付けます。ご希望の方はご連絡ください。

3月24日/31日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 「反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習」 全2回(3月24日・31日)

3月 25日(土)10:00 ~ 12:00
東武池袋 ★仏教ガイダンス 草薙龍瞬の『仏教とともに生きる』
――――――――――――――――――――――――
4月 8日/22日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア ★シリーズ講座 生き方として学ぶ仏教入門・第1回(第2・4土曜午前)

4月13日/27日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

4月18日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「ほんとうの人生の始まり(道に立つ)」
 
4月19日(水)10:30 ~ 12:00/13:30~15:00
東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき -東急BE二子玉川/東急BEたまプラーザ

4月21日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第1回(単回受講可)
 4月30日(日)10:00 ~ 12:00
仏教入門「悩みを溜めない心の使い方」★要予約/初めての方優先
神楽坂・赤城生涯学習館
――――――――――――――――――――――――
5月3日(祝水)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月4日(祝木)
10:00 ~12:00 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき - 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 生き方としての仏教講座 神楽坂 - 神楽坂・赤城生涯学習館

5月5日(祝金)
13:00 ~15:30 人間関係特集「夫婦・子育て・職場で苦労しないコツ」 神楽坂・赤城生涯学習館

18:00 ~20:30 座禅と法話のひととき 解説ガイドブックつき  神楽坂・赤城生涯学習館

5月6日(土)18:00 ~ 20:30
生き方としての仏教講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月7日(日)
10:00 ~12:00  座禅と法話のひととき 神楽坂・赤城生涯学習館
18:00 ~20:30 坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月11日/25日(木)14:00 ~ 16:00
巣鴨・大人のための仏教の学校 - 巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り

5月12日(金)18:30 ~ 20:30
朝日カルチャー新宿 反応しない心のつくり方~上手に心を使う練習 全4回・第2回

5月13日(土)10:00 ~ 12:00
東武カルチュア 生き方として学ぶ仏教入門(第2・4土曜午前)

5月14日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館

5月16日(火)
名古屋栄中日センター 仏教講座「人間関係の基本(慈・悲・喜・捨の心)」

5月17日(水) 東急BE〝心の上手な育てかた&使いかた〟仏教解説と禅瞑想つき
10:30 ~12:00 東急BE二子玉川/13:30 ~15:00 東急BEたまプラーザ

5月21日(日)18:00 ~ 20:30
坐禅も講座も~仏教をひととおり体験する講座 神楽坂・赤城生涯学習館












ふたたび、出家、日本をゆく(帰国報告^^)


こんにちは、草薙龍瞬です。ようやく日本に帰ってきました。

今回は、長かった~~~~というより、なんか中途半端?な感じが残りました。

なんというか、全体的に、のどか(笑)。いつものような、仏教徒の誰が自殺したとか、殺されたとか、そういう闘いを求められる場面に、直面しなかったというのが、ひとつです。


その代わりに、劇的な出会いがありました。


◎ひとつは、仏教が滅び、今やカースト差別がまかりとおる「ラージギル」(日本では「王舎城」)で、現地に生きる不可触カーストの仏教徒たちに出会ったこと。


◎ヴァイシャ―リーという、これもブッダゆかりの土地の近くで、「ブッダトラ」という地名の、純粋な仏教徒たちのコミュニティを発見したこと。

この区域は、ブッダに帰依した婦人アンバパーリ―の生まれ故郷です。彼女がブッダたちに寄進したとされるマンゴー園がありました。

ブッダはこの村はずれの洞窟で、ひと安居(雨季の滞在)を過ごしたのだとか。ここは、知られざる仏教スポットだったのです!


◎さらに、「パルヴァッティ」という土地では、ブッダがインドラ神からの42の問いに答えたという伝説がある洞窟がありました。その洞窟を管理する人たちもまた、純粋な仏教徒でした。


◎そして、久々に再会したナーランダ大学長のダンマジョーティ師が連れて行ってくれた、ブッダと同じシャカ族の末裔たちの部落も。あの「シャカ族」です。

中には、ブッダの像を隠して、代わりにその母マーヤを、ヒンズー教のラクシュミ―の姿に似せて、崇拝していた部落も。

ブッダを直接祀っていたら、ヒンズー教徒たちに破壊されるため、こういう戦略を取っていたのです。まるで江戸時代の隠れキリシタンみたいに。


――今回の大きな収穫は、ヒンズー教に侵蝕されていない、原始の仏教コミュニティが、見つかったこと。

ただ彼らは、仏教が何かを、ほとんど知りませんでした。パルヴァッティの村では、「いつもやってるお経言ってみて」といったら、「ブッダーン、サラニャーン、ガッチャ~ミ~……サードゥ!」でおしまい。

洞窟の中で、一緒にパーリ語のお経を唱えたのですが、みな手を合わせて、一生懸命で――(涙)。


今の時代、純粋な仏跡や、仏教徒のコミュニティというのは、ほぼ死滅しています。ブッダガヤや、クシナガラといった、仏教ゆかりの場所でも、管理しているのは、実はバラモンたちです(かっこは坊さんなので、見分けがつかない)。

どの場所にいっても、ヒンズーの祠と、神々の像と、バラモンたちが、大事なところ(たとえば山の頂上とか、仏跡があった場所とか)を占拠してしまっています。


ところが、今回行ったところでは、そのヒンズー教の勢力をほとんど感じない場所が、いくつかあったのです。


インドは広いと感じました。まるで、昔の川口浩[かわぐちひろし]探検隊みたいな心境に(知らないか(笑))。

インドの森深くに、幻の仏教徒コミュニティ発見!!!!みたいな(笑)。


●今後は、ブディズムという思想を、現地の言葉に置き換えて伝えていくことになるでしょう。

力強く、明快なメッセージをもって、彼らの今後を励ましたいと思いました。


頑張れ。ダンマ――人間すべてが幸福になれる道――を、この場所で確保せよ、と。


日本の仏教講座で配っている資料を、まずは英語に。それを現地の仲間に翻訳してもらって、印刷して、彼らのコミュニティに配る。


輪廻などない。カーストもない。人間に苦しみを強いるいかなる理屈も、妄想でしかない。


そのブッダ本来のメッセージに目覚めよ、覚醒せよ。

そしてこの現実の世界のなかで、望みうる最高の生き方を実践せよ。

ブッダが伝えた正しい道に立つのだ――。


そんな思いでした。


とはいえ、現地にいけば、気のよい、純朴な人たちとの、喜の心の交流があるばかりなのですが(笑)。


ちょっと中途半端な思いが残った、というのは、出会いに留まり、その先のブディズムの分かち合い、というところまで、時間的に進められなかったからです。


●ただ今回は、日本でお寄せいただいたご声援と、自分自身の志をけっこう足して、かなりの慈悲、貢献を果たせたように思います。

ご協力いただいたみなさん、どうもありがとうございました。


ふだんは、ヤクルトジョアでさえ、大人買い(といっても2本)をためらうほどの倹約家です。

しかし、この地で人々に出会い、現地の問題を理解して、はて何ができるかを考えた時に差し出せるものというのは、とても自然に、自らの務めであり、友情の証として、出てきます。


そして今回ほど、お金が力になるということを実感したことはありませんでした(実感しなかったのは、発想が貧乏症だし、実際に貧乏だからですね(笑))。


日本に帰って最初の二年は、食いつなぐのに精いっぱい。

その後、本を出せたことで(お陰さまです)、教室に来られる人たちがちょっと増えてきて。その頃は、教室に「竹筒」を置いて、カンパを募っていました。

一年以上かけて、十万円ちょっとさずかったので、それを大事に、4年ぶりにウダサ村に持っていきました。


それが今回は……! 


「たいへんよくできました」です。来年以降も、しっかり持っていかなければ。


そのためにも、ここから日本でまた、しっかり活動したいと思います。


まずは、次の本の原稿を完成させなければ(まだやってないって? 真心こめて作るなら、本は年に多くて数冊です(笑))。


今は連載を二本いただいている(NewsPicksとPHP暮らしラク~る♪)ので、インドでも、帰りの空港内でも、文章を書いていました。

どこでも、ヒマがあれば、何か書いている。それがなんだか、自然にできるようになってきました。


きちんと命を燃やすこと。そのためには、正しい動機と、正しい行いと、正しい方向性とが、必要になるでしょう。

この三つがそろえば、毎日が、ごく自然に回っていける。

十二分に生きていながら、疲労しない、そんな毎日が可能になるように思います。


帰国後は、3月20日の講演会から早速スタート。4月からはカルチャー(東武、東急、朝日)です。神楽坂は、どうするか考えます(笑)。


●とにかく! ブディズムを、ただの宗教、観念、知識、妄想で終わらせないことです。

これは生き方の問題なのです。
自分自身が苦悩を抜け、心の自由を、最高の納得を引き出すための、実践なのです。


勘違いしている言葉が、世の中にはあまりに多い。多すぎます……。


大事なのは、何が仏教か、というより、その仏教で自分の現実がいかに変わるのか、という問題のはず。

おのれのめざすところ、自分自身によしといえる生き方は、一体どこにあるのか?という問題。


そこに答えを出せるなら、仏教じゃなくていい。なんだって、正解です。


そこまで開かれた、突き抜けた、目覚めた発想を、持てぬものか――そんなことも、暗い言葉が飛び交う、せちがらい日本の実情を見るにつけ、感じることがあります。


どのような人生も、やすらぎと自由と喜びと、思いやりと、励ましを、そのゴールに据えること。

そのゴールだけを思い出して、曇りがちな心の眼を醒ますこと。



明るい方向へ、心を立て直すことです。

道は、もうすでにあなたの足元にあるのだから。

歩き出すだけでよいのです。


もうすぐ日本!


【出家、インドをゆく】 ブッダ静寂の旅路


ブッダ静寂の旅路

 車は、煤煙を噴き散らす大型ダンプに挟まれて、ガンジスが小さく見えるほど高くを走る陸橋の上にあった。

 私は、パトナを越えて、ブッダが死期を予感したというヴァイシャーリーという町に向かっていた。

 できることなら、舟でガンジスを渡りたかった。かつてブッダは、マガダ国の商業都市パータリプトラ(現パトナ)の外縁をなぞるガンジス河を、舟で再三渡ったとされる。
 
 原始仏典の中に、八〇歳になったブッダが、今生の最後と自覚して旅した記録が残っている(ブッダ最後の旅=マハーパリニッバーナ・スッタ)。

 ガンジスを越えるときに、ブッダがふと漏らした言葉が伝わっている。

 水に身を浸すことなく橋をかけて、海や湖を渡る人びともある。

 木切れや蔓草を結えた筏をつくって渡る人びともいる。

 智慧ある人が、その智慧をもって渡る河(≒人生)もある。

 今もガンジスは、波なみと水を湛えて、穏やかに豊潤に流れ続ける。岸辺で水を呑む鳥もいれば、飛翔して足を洗う鳥たちもいる。その流れの上を、ブッダは人々に交じって、アーナンダとともに舟で渡った。

 その頃ブッダが使った船着き場は、昔は、ゴータマ・ガート(ゴータマ渡し)と呼ばれていたという。

 だが、異教に酷薄なインドである。そのような名の船着き場は今はどこにもなく、私が知る小さな渡しは、ガンジー・ガートと呼ばれている。高い確率で、この数十年の間にすり替えられたはずである。

 岸に降りたブッダとアーナンダは、再び砂の原を北に向かって歩いて行った。

 ヴァイシャ―リーに延びるこの渋滞の道は、二千五百年の昔も、人々が往来する幹線道路だったと思われる。

 私は、ブッダが見ていた風景が、道中垣間見えることはないかと心働かせながら、車窓の外を眺めていた。

 ふと心が反応するポイントがあった。私は急いで、ドライバーに車を止めさせた。

 道の両脇を、背の高い砂地の土手が遮っている。その斜面を上がった。すると、広々とした緑の地平が見えた。

 棕櫚[しゅろ]の木やマンゴーの林、インド独特の背の低い灌木――だだっ広い砂の原に、緑の木々が点在しながら広がっていた。

 ブッダが近い――私のなかで、そんな感興が湧いてきた。長くインドを旅してきて、はじめて抱いた感慨だった。




 ブッダは、どのような空気を呼吸し、どのような大地を踏みしめて、歩いていたのか。私はその感覚に近づきたくて、しばし緑の灌木の合間をひとり歩いた。

 茅葺[かやぶき]の小屋が、林の合間に点在している。水牛がいる。私の姿を見つけた婦人や子供が、静かに声をかけてくる。



 旅人には食や床の施しをするというのが、インド古来の文化である。おそらく私が訊ねれば、なにかしらの供養を自然に図ってくれるやもしれない。この地で精神修行者が旅することは、難しいことではない。

 ブッダとアーナンダは、ときにひとの厚意を受けながら、ときに樹木の影に憩いながら、この平坦な砂の原を、ひたすら歩き続けたに違いない。

 二人の旅路に、無駄な会話はなかった。ともに心の清浄を基本とする道の者である。互いに距離をとりつつ、サティ(気づき)に務め、ひとの姿や風景に遭遇した時には善き言葉を交わしあった。

 その二人の旅の姿が、仏典に残っている。

 ブッダはアーナンダに告げた。「アーナンダよ、では、お前は随意にすごすがよいYou may spend you own time」

「かしこまりました」と答えて、座から起って敬礼し、右肩を向けてめぐって、近くにある一本の樹の根もとに坐った。


 二人がいかに静寂を、そしてそれぞれの務めを大事にしていたかが、伝わるエピソードである。

 日が落ちれば、木の下にそのまま留まる。座っている時も、横になっている時も、気づきを保つ。外の世界が明るくてもたそがれても、心を観るという務めに影響することはない。


 私が今目の当たりにしている風景は、おそらくブッダが歩いていた頃の景色とそれほど変わらないはずである。だが唯一違っているとすれば、それは音である。

 街道を走る烈しい車のホーンやエンジンの音。気兼ねするという発想のないインド人らしい、ドラムの効いた大音量の音楽。その無秩序にして無節操な音の鳴動が、私の頭上を通り越して、白くかすむ大空となだらかな平地へと浸透していく。

 だが――二五〇〇年の歳月をさかのぼっていくにつれ、これらの音は消えていく。

 もしこの大地から、現代的な音を消去したとすれば、何が現出するだろうか。

 それは、無音の世界である。この果てしなく広く平坦な大地には、音を響かせる渓谷や巌はない。むしろ一切の音を静かに吸い込む、砂と木々があるばかりである。

 音も、風もない。その静寂の世界を歩き続ける二つの命には、俗な人間が作り出す無駄な言葉も動きも、いっさいない。

 さながら大地の一部であるかのように、あたかも樹木のひとつであるかのように、無の心で、遠くから見ればひとか自然か判然とさえしない、小さく二つの影が、音もなく歩いていく――そういう姿であっただろう。

 今私の目に映る、あの遠方の木々の下で、夕暮れに腰を下ろし、気づきを保ち、夜の静寂の帳[とばり]のなかで体を休め、深く心を見つめて、やがて白々と明けてゆく朝もやの中で、新しい一日の始まりを知る――そんな旅路を重ね続けたら、ひとは、どんな心境になりうるであろうか。

 おそらくブッダも、アーナンダも、現代人が想像つかないほどの静寂と澄明の心境のなかで、旅していたのではなかったか。



「道に立つ者」にとって、旅することと、一所に止まることとは、一抹の違いもない。

 命つづくかぎり気づきを保って、心の清浄を心がける。歩く。人に出会う。生き物と遭遇する。そのときは、慈しみと悲と喜の心で交流する。

 その心に、なにひとつ患うことは、ない。



 ヴァイシャ―リーへと一目散に疾走する車でさえ、相当な距離を感じさせる遠い道のりである。

 この道のりを歩いて旅したブッダの末期の眼には、過去の月日は、どのように見えたのであろうか。

 激しい苦行に身を投じた森のこと。悟りをひらいた樹の下のこと。ビンビサーラたち心通い合う友のこと。最初に教えを説いた鹿の園。弟子たちが修行に励んだ竹の林のこと――

 いっさいの思い出が、旅人がふりかえる青々しい山なみのように、はるか遠く霞むように見えていたことであろう。

 ブッダは、自身の肉体の死を予感したとき、住み慣れたラジギールに留まることではなく、旅することを選んだ。おそらく彼は、どこにたどり着こうとも、たどり着けるとも、思っていなかったのではなかったか。 

 人生の最後に彼が選んだのは、この風も音もなく、ただどこまでも穏やかでなだからな大地を、ひたすら歩き続けることであった。

 どこまで歩けるか定かではないが、それは目的ではない。

 過去たしかに生きたという感慨はあっても、記憶の中のいかなる風景にも、執着はしない。

 ただ今ここに生きている命という名の現象を、ひたすら気づきをもって見つめて、いっさいの濁りを心つくらない。

 まるで空を飛ぶ鳥の軌跡のように、何も後に引いて残さない。

 そういうかぎりなく透き通った心境における旅である。

 アーナンダよ、心の向上に努めた者が、一切の思い(こだわり)を留めず、

 苦しみの感情を抱かず、とらわれのない心境にあるとき、

 その者は最上の瞬間にいるのだ。

 これ以上の人生のゴールはない、ということである。

​ いくら想いを馳せても、旅するブッダの澄んだ心は、この世界の、もうどこにも存在しない。

 届きようのない宙[そら]を仰ぎ見ているような気がして、不意にせつなくなった。