仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚は毎年夏! 講座・個人相談・法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

いざ年越しの「行」へ!

12月28日
こんにちは、草薙龍瞬です。

今日は年納めのところが多いらしく、木枯らしの中お勤め帰りのまとまった一団をたくさん見かけました。

私は駒込までえっさほいさと自転車で走って、年内最後の講座。

昨夜27日に続けて、たくさんの方がきてくださいました。

みなさま、一年間、ご精進さまでした!


年越しというのは、一年に背負ったいろんな心の荷物を忘れるためのよい行事ですよね。

ただ、「忘れ方・抜け方」を知らないと、年が明けたら、また執着しまくりの日々が始まってしまいます。

執着して、反応し続けて、でもその執着も反応も、いまひとつプラスの成果につながらず、労多くして益少ない感じがして、

それでも、他にやりようがないから、一生懸命これまでの自分を生きて、また反応して、執着して、

ふり返っても、あまり楽しい記憶も充実感も思い出せないものだから、

「なんかあっという間だったな」「何やってたんだろうなぁ」という感想に落ち着いてしまう。

で、「よし、また来年頑張ろう!」と思うわけですが、やっぱり元々の執着グセは治っておらず……ということを、大体人間は一生分くりかえして、人生を卒業するのですね(なんかしみじみ)。

でも、そんな執着グセだけだと、気が晴れないし、重たいし、あんまりよい精神状態だと思えない。だから、

人によっては、仏教という「心を洗う道」に踏み出すわけですね。

これって、海の中を泳いでいた生き物が、陸に上がるくらいにすごいこと。

そんな新しい世界に踏み出した人たちが、この12月の最後の講座に来てくださって、

さらには全国にも、新しい人生に踏み出した人たちが、たくさんいての、この年末です。

素晴らしい一年の終わりです。お疲れさまでした。ありがとうございました。


ぜひ、来年は、「忘れ上手・抜け上手」をめざしましょう。

それは、物忘れがひどくなるということではなくて(笑)、

心をいつでも自由にできること。

ハマってしまった心の状態から自らを解放できることです。

心を自由な状態にすることが上手になれば、

自分にとって善きこと・意味のあること・喜ばしいことに心を使えるようになります。

そうすると、日々の中の充実感が増してくる。「生きている」という実感が湧いてくる。

すると、一年の終わりに「この一年はよく生きた」という納得が残ります。

納得こそが、最高のゴールです。

そういう一年になるように。2018年も精進してまいりましょう。

この一年たいへんお世話になりました。そして精進してくださいました。

新しい一年が、たくさんの発見と成長と納得をさずかる年になりますように
草薙龍瞬敬白合掌

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はここから、沈黙行――魂魄を込めて執筆行――に入ります。大晦日も正月も無し(笑)。もう2年ぶりの新刊です。

2018年に、本を通してまた真実をわかちあえるように、

そして道を求める多くの人たちともっと広く大きく出会えるように、

誠実に言葉を紡ぐ行【ぎょう】に入ります。いざ!

ラスト一週間に想うこと

12月19日朝の新幹線で名古屋へ。今年最後の講座。

車窓に、冬の澄みきった青空に富士山が美しく輝いていた。

 
講座は原始仏教のまとめと、締めのパーリ語のお経。

インドへの贈り物やお餞別を用意してくれていた人たちがいて、
「これ読んでみてください」と心理学・家族論の本を何冊も持ってきてくれたり、
自分の生い立ちを便箋にワープロで書いて持ってきてくれたりする人もあった。

みなさん、熱心に仏道を共有してくださる。じつにありがたいことだ。

●その後、残った人と小さな懇親会をやって、一件相談を務めて、法事の打ち合わせ。

●長く長い一日が終わって、新幹線で東京へ。

今日もまた、多くの人の善き心・美しき心に触れた一日だった。

私がひとときを共にするのは、相談か学びか仕事か――いずれにせよ、誰かが苦しみから解放され、また誰かが幸せに近づくことに役に立つ、明瞭な目的がある場合のみである。

この命にとって、何が楽しいのか、何が喜びになるのかといえば、

やはりひとが、己の人生に誠実に、真摯に向き合い、学び、乗り越えて、少しでも心を自由にしていく、そういう努力や姿に触れるこである。

それ以外の目的は、この人生には要らぬ。本当に、つくづくそう思う。

ひとの厚意・善意に出家がお応えできぬ時――たとえば、私の誕生日を祝って下さろうなどという、正直に言ってありがたいようでありがたくないお申し出を受ける時――は、ちょっと淋しく思う。

なかなか、出家の世界というのは理解が難しいものなのだと思ってしまうからだ。

ちなみに、人の幸せを願うことを第一とする思想・信仰の世界において、誰かが自分の誕生日を祝ってもらって喜んでいるというのは、完全に間違えている。

だから、ブッダの生誕祭みたいなものも、本当は完全にズレているのだ。そうした自己満足を形にし始めた時点で、「自分以外の誰かの幸福」という目的から自らを遠ざけて、本来の思想・信仰は瓦解してゆく。

仏教を語る世界や人間は、世の中には数多く存在する。最近ならば「マインドフルネス」もそのひとつだろう。

だが、仏教を語る人間の目的は、「自分以外」のところになければいけない。

自己満足ではいけないし、ただの言葉・理屈であってもいけない。

わかった気分になるのではなく、ひたすら実践して、自らが生涯をかけて窮めないといけない。

正直にいって、仏教という世界は、それほど軽く甘いものではない。適当に語りうるものと思ってはいけない。

安易に理屈だけで語りうるものだと勘違いしてはいないか。
それこそが認識の甘さ、自らの生き方における軽薄さではないか。

まずは、世俗の価値観を越えて生きるという孤独を引き受けて、
徹底して努力することだ。

趣味や理屈レベルではなく、もっと必死に生きることである。
でなければ、仏教がどういう思想かは、絶対にわかりはしない。


●夜遅く、神楽坂に戻ると、外に猫のサラちゃんがいた。にゃああおうと鳴く。

「おかえり、おちゅかれさま!」と言っているのか、
「もうどこに行ってたのよ、おあちょびしまちょうよ!」と言っているのか。

わかりやすく自己中なサラである。きっと後者であろう。

ということで、公園に向かう。サラは喜びに尻尾をピンと立てて、小走りで後ろを走ったり、追い越して前を走ったり。

誰もいない公園で(かなり寒いのだが)、しばし遊ぶ。

この子も、不思議な因縁で2年前の夏にやってきた。今はすっかり仲良しのお友だちである。

私は縁に恵まれている。ありがたい善意をたくさん頂戴している。

この命は不器用で、手が回らぬ、気も回らぬことばっかりのような気もするが、しかしこの命をもっと使ってもらいたいという願いは、つねにある。

ぜひ、この命に命――役割――をください。

年の瀬を走る皆みなさまが、しあわせであるように。
 
 
 

ああ、中途半端

12月15日
いよいよ師走も後半に突入した。

世間の人は、一年の締め括り、年度末で慌ただしくなさっているのだろうと思う。

私の場合は、大みそかから正月にかけてが、実は一番忙しかったりする(笑)。というのも、自分の心を深く見つめて、本に託する言葉を掘り起こす、最後の期間になるからだ(前回もそうだった)。

家庭をもたぬ出家の身の上がありがたい(?)のは、年越しや新年の挨拶・行事というのが、見事にないこと(笑)。

ありがたいのか、淋しいのかわからないが、静寂のなかに沈潜できる――。

それは喩えるなら、深海の底にひとり佇んで、何かを祈っている状態に近い。

世界の中でひとり、人々がそれぞれの家庭・つながりの中に戻っている最中に、闇の底のほんのり照らす明かりの中にいるような心境になる。

つつしみと、慈悲と、この命はまだまだ働きを果たせるという(ちょっと欲張りな)思いと――。

それは「祈る」という言葉が一番近い。そんなひとときになる。

今書き進めている本もまた、祈りのようなものだ。毎回、遺書を書くつもりで書いている。

●もうひとつ、また来年早い時期に、インドにゆく。

正直、年々、しんどくなってきたのは事実である(笑)。水も空気も食べ物も言語も人間も、何もかもが違う。どちらがラクかといえば、圧倒的に日本である。

だが、インドにゆけば、また別の使命が待っている。彼の地には、生粋の仏教徒たちがいる。彼らにとって仏教は、未来への希望である。日本から毎年訪れる出家を、心待ちにもしてくれている。

必要とされている――その事実があるかぎり、私はいかねばならないと思う。

昨年偶然発見した、パルヴァッティという部落は、インドでは実に稀有な、ヒンズーに侵されていない仏教徒コミュニティだった。

(これが人間の家かと思わざるを得ないほどの、大量の牛糞に占領されたあばら家があった。そこに棲む男も、不可触民の仏教徒だった)

彼らの祖先たちは、ブッダの像を隠し、ブッダの母マーヤを、ヒンズーの女神サラスバティに見せかけ、四聖諦を四つの、八正道を八つの石柱で表現して、仏教を守ろうとした。

だがその工夫が仇となって、四聖諦も八正道も分からなくなって、お経と言えば「ブッダン・サラナム・ガッチャーミ(私はブッダに帰依します)」の一言しか今は知らないという、哀しくなるほど危うくて、しかし篤実な仏教徒たちがいる。

彼らがブッダの道に再び邂逅することは、それだけで二五〇〇年の歴史の中に燦然と光を放つ奇跡になる。

一生かけても成し遂げなければならない、最重要な使命でもある。

ところが――私は毎年二カ月ほどしか滞在しないのである。一つひとつの場所に滞在できる期間はもっと短い。

もし私が日本での活動をすべて捨てて、現地に根を張れば、おそらく現地の言葉を覚え、英語で本を書き、道を説き、人々に、カーストや輪廻といった妄想をつきやぶって自由に生きる方法を、魂を込めて伝えるであろう。

ところが、現実には、そこになかなか到達しない。考えてみると……あまりに中途半端である。

日本でも半端者。インドでも半端者。どちらの人に向けても、スミマセンという言葉しか出て来なくなる。正直、深夜に泣けてくる(笑)。

……という夢を見た。私はほとんど夢を見ないが――妄想しないがゆえの功徳なのか(笑)――だが最近、こうした夢を見たのである。

インドの人たち。仏教を求めて、今もはっきり光明の見えない世界で生きている人たち。貧しく、地位は低く、本当に素朴に生きているが、私の目には美しく、愛らしく、ひたむきに生きている命がある。

結局私がインドの大地に戻って、また新しい命の芽を吹き返す思いがするのは、日本とはまったく異観の風景に胸がすく思いがするとともに、人々の命の美しさに当てられるからなのだろうと思う。

私はインドで一生を生きていきたい。生きて、燃え尽きて、仏道をつらぬいた出家として、インドの大地に帰りたい。

そんな夢を見た。

でも日本のみんなも好きなのである(笑)。

人生は哀しい。短くて、そして中途半端だ。

ウダサ村の夜明け

とりあえずサラちゃん

こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ師走突入ですね。神楽坂は27日、駒込は28日で学び納めです。

12月は、法然・親鸞、河口慧海など、日本仏教史上の人物をめぐる教材を用意しつつ、メインテーマは参加者の質問・関心に応じて組み立てます。

第3週以降はクリスマスっぽく……やりませんので(笑)、お時間合いましたらいらしてください。

●前回のメール通信(あるいてはじめて見える景色もある)について、


「幸せであるように」と唱えるのが仏教だと思っていましたが、御著書にはあまりそういうのがないなと思っていました。

今回のメール通信を読んで、言葉だけ呪文のように唱えても意味がないから、そこを強調せず、代わりに具体的な方法として合理的な考え方を説いてくださっているのだなと思いました。

この言葉を唱えれば救われると信じることではなく、心からひとびとの幸せを祈ること、その心がけに立つこと。

この言葉の意味するところがようやく分かったような気がします。


これは仰るとおりです。私はあえて、「生きとし生けるものが幸せであるように」という慈しみの言葉を、多用しないように心がけています。

というのは、言葉というのは、状況に応じて力を持つものだからです。状況に応じて、表現も変わるのが本来の姿です。

どんな状況であれ、ひとつの決まった言葉を繰り返すというのは、もちろんその言葉に応じて心が整うというのなら意味を持ちえますが、

しかし場合によっては、状況を見ずに、また現実をふまえていかに心を整えればいいかというひと工夫(智慧)もなく、

ただ機械的に唱えてしまうという形になるおそれがあります。そうした言葉は形だけになってしまう。本当の心からの声にはなりません。考えない、つまり心をしっかり使わない形だけの宗教になってしまいます。

結果的に、自分がまだ乗り越えられていない弱さ――慢とか利欲とか足元のテーマ――はそのままに、言葉だけ呪文のように唱えている、という状態になってしまうことがあります。

ただ、それでは現実的な解決にならないことは、おわかりいただけるのではないでしょうか。

形だけの言葉にとらわれないように。私はそう考えます。

つねに生きた言葉でないと。心の底でしっかり確かめている状態でないと。肚の底から想うようにしないと――。

●ちなみに、自分自身のあり方については、「○○でありますように」ではなく、

「○○をめざします」というのが、正しい考え方です。

自身の幸福も夢も目標も、「ありますように」という婉曲的(遠回しの)思いではなく、

自分の努力・心がけによって実現するもの。その意味で、

「私は○○をめざします」「○○への道を歩みます」という決意、覚悟、宣言が正しい言葉です。

自分の方向性は、自分で決める。決めたら、忘れない。つねに思い出して、その方向性に進んでいく。

めざすことを、仏教では「信を持つ」といいます――『反応しない練習』KADOKAWAに書いてありますが――方向性を見定めて動じない、という意味です。

これに対して、他者の幸せや、世界のあり方については、自分の力だけではいかんともしがたい領域なので、執着を控えるという意味もあって、

「でありますように」という婉曲的な、願いの表現になります。これを「誓願」といいます。

「信を持つ」のと「誓願する」というのは、じつは違うのです。

●もちろん、自分自身の未来についても、実現が難しい、可能性が高くない、その意味で願うしかない遠い地平というのはありえます。

その場合は、執着はできないので、「○○でありますように」と、願うことになるかもしれません。

ただその場合も、自分でコントロールできる領域にまで落とし込むことが大事だと思います。

自分の心がけ・努力次第でできること。そこまで具体化して、「○○に努めます。そして、○○をめざします」という考え方に置き換えるのです。

しっかりめざすこと。方向性を見すえて、
今できること・なすべきことを確かめて、
心を尽くすこと。

その道のりの先に、よき成果がついてくる「可能性」が生まれます。

●3月中旬発売予定の新刊では、世俗的な成功や価値を追いかけるのではなく、

心の解放を、自由を、
「自分の人生を生きているという実感」を、
変わらぬ日常のなかで手に入れる生き方 
をめざします。


いろいろと気を重たくする物事が起きる日々の中で、心の自由・解放をめざすのです。

宗教じゃない。「出家」でもない。もっと大切なのは、私たちが生きていかざるを得ない、ときに孤独でつらさを伴うこのふつうの日々のなかで、もっと自分らしく、もっと自由に生きていく方法です。

その道すじを明かす本になります。

今回も自分の一筆で一字一句誠心こめて書き込んでおります。お楽しみに。

※サラちゃんも一緒です:

一緒に読書中のサラちゃん


上機嫌のサラちゃん