仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚は毎年夏! 講座・個人相談・法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

おしらせ 夏の全国行脚、今年もスタート

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このバナーをクリックすると、全国行脚応募ページにジャンプします。


こんにちは、草薙龍瞬です。
いよいよ、今年も夏の全国行脚をスタートします。

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講演・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談・聞きたいことがある


などなど、お気軽にご応募ください。
場所・人数は問いません。

よき夏の思い出作りに、
おひとりでは解決できない物事を解決するために、
人生を前に進めるために、
ぜひご活用下さい。

応募方法  ※上記バナーのリンク先ページか、下記の方法でご応募ください。

①お名前・②ご住所・③連絡先(電話番号)・④ご希望の内容と、⑤日にち(複数可)を、
メールで koudounosato@gmail.com まで連絡ください。

※ご応募期間は、全国行脚終了(今年は9月25日・沖縄)まで。いつでもご連絡下さい(先約優先いたしますので、早めにご連絡ください)。

ご連絡いただき次第、興道の里事務局から詳細をお知らせするメールをお送りします。
そのメール内容に沿って、お進めください。
  ↓
②講座・勉強会・法事・個人相談などの場所をお見つけください。

※飛び入り可能な一般向けの講座・勉強会を企画してくれる方、大歓迎です。
※個人相談の場合は、ご自宅や喫茶店でOKです。
  ↓
③日時・場所が決まって、全国行脚カレンダーに訪問地として掲載されれば確定です。

旅の途中にふらり寄るという感じで足を運びますので、お気軽にご連絡下さい。

――その他、ご相談・お問い合わせは、メールでお寄せ下さい。随時返信いたします。 koudounosato@gmail.com

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訪問日程は、講座スケジュールのほうをご覧ください。
「この日に近くまで来ているんだ、だったら連絡してみよう」という形でかまいません。

各地講座は、どなたでも無料でご参加いただけます。
現地に赴く足代なども不要ですので、お気軽にお声がけください。

毎年たくさんの出会いと学びを得られる特別な期間になっています。

ひとりで答えが出せない課題を抱えている人、法事や個人相談をご希望の方など、

ぜひご参加ください。

よき夏の日となりますように
興道の里・草薙龍瞬



日本仏教 始まりにあった奇跡


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5月 24日/6月7日 14:00~16:00 ★駒込ではなく巣鴨です
巣鴨・大人のための「仏教の学校」
巣鴨地域文化創造館 巣鴨地蔵尊通り 
〒170-0002豊島区巣鴨4-15-11 JR/都営三田線巣鴨駅

5月 26日/6月9日 10:00~12:00
東武カルチュア 仏教は「上手な生き方&心の使い方」

6月 1日 19:00~21:00 
生き方としての仏教講座 神楽坂 赤城生涯学習館 教養A室
★原始仏教か聖徳太子(または両方)をやります(
参加者の顔ぶれで決定)

6月 2日 18:00~20:30 ★特別講座
ブッダに学ぶ「自由だった心を取り戻す方法」神楽坂

6月 10日 18:00~20:00
生き方としての仏教講座 神楽坂
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【 仏教講座】
日本仏教の始まりの奇跡

5月第3週
この最高の季節にこの最高の国にいあわせることのできる幸せを想う。

火曜は名古屋、水曜は神奈川、金曜は新宿と、今週は講座が続いた。

どのクラスも4月から新規スタート。日本仏教編は、その黎明に位置する聖徳太子を終了。

聖徳太子はまぎれもなく「大乗仏教」のひと。

ひらたくいえば、「自分の悟りより、誰かの幸福のために」という生き方を実践しようというという系譜のひと。

たとえば、とある伝統は、

出家に布施すれば、ふつうの貧しい人に布施するより功徳を積めて、よき来世に生まれ変われるとするが、

聖徳太子は、
「絶対的真理にもとづけば、そのような区別はない。
 仏を敬うことも、乞食の人をいたわるのも、ともに等しい功徳がある」

という。(維摩経の解説書:維摩経義疏から)

その精神で、四天王寺を作って、

老人・病者・貧しい人たちを世話する施設(悲田院・施薬院)を立ち上げた。

彼の生き方のベースには、大乗仏教――

仏教は、自分だけでなく、すべての人が救われる大きな乗り物たるべきだ
――

という思想がある。

わけへだてしない。優劣を作らない。苦しい人への共感にもとづいて行動する。

もっとも、ブッダ本来の思想からすれば、こうした差別なき共感にもとづく行動というのは、自然なこと。


聖徳太子がどれだけ自覚していたかはわからないが、

彼の生き方というのは、原始のブッダの教えを世俗に忠実に活かせばこうなるという、

ひとつの忠実なモデルになっている。みごとに慈悲を実践している。


「さとり」や「涅槃」を、人間がめざすべき最高の境地だと訴えたところで、
自分たちが、そのための修行に全生涯をついやすのでなければ、
その言葉は、絵に描いた餅というか、ただの観念、自分の生き方と結びつかない妄想ということになってしまう。

「おしゃかさま」をあがめ奉ったところで、
自分の心の慢をいましめて、克服することができなければ、
自分を正当化し、自らに価値を見出すための、自己満足のための記号ということになってしまう。


本来、
みずからの心のみを見つめて、
そこに「自分」以外の、自分を超える、思いを置き、
その思い=ダンマにもとづいて考え、行動する
ことこそが、

「みずからをよりどころとし、ダンマをよりどころにする」というブッダが伝えた生き方だ。


そこには、「さとり」なる最高のゴールも、「おしゃかさま」も「来世への転生」なるものも(つくづくこうした観念は、むなしい妄想の域を出ていないことが多いが)

存在しない。というか必要がない。

おのれの心だけをみて、そこから一歩現実へと踏み出す。考える。行いに移す。

それはあくまで「今だけを生きる」ことであり、かつ
「みずからをよりどころにする」自立した生き方だ。


この、仏教の潮流の始原から流れ続ける生き方は、
ブッダの時代においても、聖徳太子という日本仏教の始まりの時期においても、たしかにあったということ。


聖徳太子の場合は、十代の時に近親を失ったり、殺されたり、戦に巻き込まれたりという
殺伐にすぎる環境のなかにあって、

奇跡的なことに、仏教というよりどころを見出した(見出したのは、仏教が優れていたからというより、彼自身が優れていたからであろう)。

そして、外の現実に翻弄されて心失うことなく、

みずからの内にすえたよりどころに立って、みずからにできることをなした。


もし彼が実在の人物だとすれば、相当に自立した「強い」人間だったはずだ。

そして慈悲というものを、ただの言葉ではなく「生き方」として摂り入れていた人物である。


四天王寺という慈善施設と、
法隆寺という学問(仏教庇護)の里と、
「和」を説く十七条憲法

をもって、聖徳太子の生き方は特徴づけられるといっていい。


太子は実在しなかったという説もあるが、
これらは、いずれも史実である以上、これらを興した人物が実在したという事実は否めない。

これらの事実だけをもって「生き方」を学ぶうえでは十二分である。


外の世界に救いを求めるな、
心のうちによりどころを求めよ。

心のうちに安らぎを見出せ。
そして可能ならば、慈・悲・喜・捨の心がけをひとつでも行いに移してみよ。
それが人生における価値になる。


それだけで、人生の質は、生きたことの意味は、完全に変わる。

「ただ無目的に生きた」という人生ではなく、
「みずからの納得のために生きた」という、間違いのない人生に変わる。


――聖徳太子と呼ばれる人物の生き方をたどると、そういう真実が見えてくる。


こうした生き方をした人間が、日本の仏教と政治・文化の始まりにいたということ。

これは、確実に、根の深いところで、日本人の心性に影響している。
日本文化の根幹を確実に作っている。

国の最高権力者がここまで学問を愛し、差別のない思いやりを、政治や社会事業として実践した例というのは、おそらく世界でも例を見ない。

その真実を、日本人として覚えておきたい。

※全国行脚2018、もうすぐお知らせいたします。よき初夏の日を。



サラちゃん日記5月編

【サラちゃん日記】

サラちゃんは、最近わたしの膝の上に味を占めて、隙あらばピョン
と乗っかってくるようになった。

わたしが忙しかったり、次の用事ですぐ立たねばならない時は、「ダメ」というのだが、

無視して飛び乗ってこようとして、わたしの足にツメを立てるので、とても痛いことがある。

ダメ!と強引に降ろすと、今度は部屋の隅っこの、いぐさの座布団(百均で買ったサラちゃん用)に丸くなる。

その姿はしょんぼり下を向いていて、見ていると気の毒になってくる。

サラにとっては、世界で友だちといえば、私ひとりである。大袈裟ではなく、事実。

その私に拒まれてしまっては、世界でひとりぽっちになってしまう

そもそもあんまり遊んでやれないところも、不憫にすぎる。

「いいよ」というと、足元でじっとわたしの顔色をうかがってから、ぴょんと飛び乗り、ゴロゴロ(=^w^=)。

夜外に出る時は、気配を察してドア前に走って行き、じっと待っている。
一緒に出る時は、しっぽをピンと立てて、嬉しそうについてくる。

砂場で、ねずみおもちゃの捕獲ごっこをやるのだが、ダッシュもターンもねずみを抑えるのも、キレキレ(笑)。体力が余っているらしい。

ニャオニャオととにかく大声でよく鳴く。ある人によれば、猫が声を出して自己主張するのは、甘えている証拠だというが、本当だろうか。公園で誰かがいても、物おじせずに大声で鳴く。

ときおり、手塚治虫のブラックジャックに出てくるピノコと重なる(笑)。喜怒哀楽が烈しくて、一途なのだが、天涯孤独な女の子である。



新学期スタート御礼! 日本仏教編スタート

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興道の里2018No30 新学期スタート御礼!
【 仏教講座】
あの「聖徳太子」からも仏教の本質は学べる

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こんにちは、草薙龍瞬です。

最高の季節になってきました。空気の温度が安心(笑)。寒さを心配する必要がなくなりましたね。

インドでは50度を超す猛暑の季節です。この時期に日本にいられる幸運を想います。

(以前この時期にインドにいたこともありました。因縁によっては、日本で暮らしておらず、今もインドにいたかもしれない可能性も(笑)。やっぱり日本の春に感謝です(笑))


サラちゃんは、ずっとお外で遊んでいます。朝、公園に行ったら、草むらに「汚れたぞうきん」が。

白い地に灰色の汚れ。完全に気配がないので、ぞうきんだと思ったのですが、なんとなくサラちゃんの体の文様に似ていなくもない(笑)。

近づこうとすると、サッと飛び出し逃げようとしたので、やっぱりサラちゃんだったと判明。

サラちゃん、こちらを振り返り、私ということがわかってホッとしたらしく、ニャア(おはよう)と挨拶。

どうやら、草むらで気配を消して、スズメを狙っていたらしい。私の前でまた固まって捕獲モードに(笑)。

夜の講座の後は、たいてい外で待っているようになりました。サラちゃんに会いたい人は、講座後にきてください(笑)。

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●あの「聖徳太子」からも仏教の本質は学べる

さて、4月に入って各地で講座が始まり、新しい人も、昨年来ていた人も、会するようになりました。

各地の教室をあわせると、毎月百人を超す方々と出会えることになります。これもまた、幸せな因縁です。

日本仏教編では、聖徳太子編がスタート(※新宿朝日、名古屋、駒込が日本仏教編)。

●聖徳太子を、歴史上の人物としてとらえると、無味乾燥で凡庸な解説を聞くしかなくなるのですが、

その言葉を探ってみると、おどろくほど鋭く深い理解をしていたことがわかります。たとえば、こんなことを言ってます――(中略)


●こうした理解に立つと、聖徳太子が憲法で定めた、

「人には、みんな心がある。心にはそれぞれにこだわるところがある。ある人は肯定するものを、自分は否定する。自分が肯定するものを、他人は否定する(だが、関係性によるものでしかないから、その違いが重要なわけではない)。

自分がかならずしも聖人というわけでも、他人がかならずしも愚かというわけでもない。みな、凡夫(並の人)である。是か非か、いったいだれが決めることができるだろう」

という言葉の真意もちょっとは見えてきます。コレ、憲法ですよ(笑)。

(中略)

●こうしてみると、聖徳太子は凄まじく聡明な人物だったのではないかと思えてきます。仏教をかなり深いところまで理解して、それを政治に持ち込んだ人。

聖徳太子は実在しなかった、という学説もあるにはありますが、そんなことは大したことじゃない。

日本の歴史の最初に――政治の上でも、仏教史の上でも――こうした言葉を語れた人物がいた、というところが、凄い。

「ここまで考えた上で政事(まつりごと)をやっていたのか」と、思えてきます。


現代において、仏教を語る言葉はたくさんありますが、しかし

「仏教のプロ」としては、たとえば聖徳太子の思想をも学び、その中にある仏教の本質をしっかり抽出して、

その仏教的生き方・考え方を、今に伝えるという形が、本来の姿です。

実は1500年にわたって、受け継がれてきた仏教思想の潮流みたいなものがあるのです。

その潮流を汲みとらないまま、特定の宗派の思想や、坊さんや学者個人の考え方を語っても、やはり小さいものにならざるをえない。

もっともっと大きな、仏教という潮流に通じたうえでの語り方でなければいけないということです。それではじめて、仏教は血の通った思想になる。よみがえる。


聖徳太子ひとりをとっても、仏教の本質を多々学べる。
その潮流の滴をひとつずつすくいあげて、現代に活かせる智慧として、現代の言葉で復活させる。

仏教を伝え、学ぶというのは、そういう姿が理想です。

ただ表面的に言葉や知識を得る&語るのではなくて、もっと深いところで本質をつかむこと。そして、実際にちゃんと「生きて」みせること。生きなければ。

そういう学び方ができる講座を、今年もしていきたいと思います。